それは有り触れた日常の一コマになるはずだった。
先生の声と黒板に文字を書く音。質問するクラスメイトに紙をめくる音に、校庭で体育をしているのだろう。駆け回る音に混じって大きな声が聞こえてくる。
そんな有り触れた日常を送っていた筈なのに、次の瞬間⋯⋯目の前のクラスメイトが結晶化していった。
それに気付いた子が叫び、先生が何とかしようとその子に触れたがどうにもならずに⋯⋯先生ごとその子は結晶になってしまう。
教室内は一瞬でパニックになり、更にはその子だけではなく他の子も何人か結晶化し始め、助けを求めている。
そんな中で1人静かに席に座り、何かを書き綴っている人がいた。
その人は私の友人の彼氏で、付き合うことになった時に紹介されたから良く覚えている。
彼も左頬が結晶化しており、恐らくそう時間を置かずに―――
最初に結晶になった人の様になるのだろう。
『ごめんね、佐久間さん。これを千紗に渡してくれないかな』
彼は徐ろに立ち上がるとノートを破り、私の元へ来てそう言った。
『わかった。必ず渡すよ。だから、誰もいない場所でなんて、考えないでね。あなたが何処にいるか分からなくなったら、きっと千紗は悲しむと思うから』
ノートの切れ端を受け取りながら、私は彼にそう頼んだ。彼は頷くとまた自席に戻り、直ぐに訪れるであろう最期を待っていた。
そしてガチガチと歪な音を立てながら結晶化する。
紫のとても澄んだ色の結晶で、それはまるでアメジストのようだった。
その他にも結晶化した人達は、様々な色をしていて何も知らなかったら大きな宝石だと思ってしまうくらいに、それと酷似している。
彼が結晶化して少ししてから千紗が教室に来た。
私は事情を説明して彼から渡された手紙を渡す。
千紗はそれを読みながら泣いていた。でも、私はなんて声をかければ良いのか分からなくて、ただ黙って彼女の背を擦るしかなかった。
全てを読み終えた彼女は私が止める間もなく⋯⋯危険も顧みずに、泣きながら彼だった結晶に抱きつく。
その刹那―――結晶は美しい光を発して彼女を包み込み、やがて収束すると彼女の腕の中には澄んだ紫色の結晶で作られた弓が現れた。
更に困惑する生徒達を余所に、ある考えが浮かんだ私は最初に結晶になった人に両手で触れてみる。すると、千紗の時と同じ事が起こり触れた手には薙刀と一振りの日本刀がそれぞれ握られていた。
これは何かあるかも知れないと考え始めた時に、何処かから―――でもかなり近くで獣の様な人の叫び声が聞こえ、何かが破壊されるような音と大きな地震の様な揺れが私達を襲う。
揺れがおさまるまで何とか机の下に隠れ、折を見て先程の叫び声の聞こえた方を窓から確認すると⋯⋯体育館のあった場所に形容し難い化け物が、よだれを垂らしながら校庭にいた生徒数名を捕食している。
想像以上の光景に耳を劈くような叫び声を上げ、我先にと逃げ出そうとする人達が廊下へと駆けていく。
そんな中でも数人は教室に残って、その光景に怯え震えていた。厳密には、恐怖から動けなかったのだろう。
私はその人達を一瞥すると自身の手に握られた武器を見遣り、恐怖でへたり込んでしまった千紗を見る。
叫ぶのを我慢するように両手で口を覆い短い呼吸を繰り返していた。その膝の上にはあの弓がある。
私は覚悟を決めると、千紗に歩み寄りこう言った。
『千紗、一番辛い時にこんな事頼むのは忍びないんだけど⋯⋯その弓を貸して欲しいの。
この状況で活路を見出すには、それしか方法がない。お願い、貸してくれる?』
恐怖に怯えた千紗の目が私を捉える。必死に声を出そうとするが、上手く出せないらしく⋯⋯でも小さく頷いてくれた。
私はありがとうとお礼を言ってから薙刀を千紗の側に置き、刀はスカートのベルトで固定し胸当てはないから、着ていたシャツと体育着を破いて簡易の晒しを作りノートを胸に当て晒しで固定する。
急造ではあるが無いよりマシだと言い聞かせ、千紗に借りたその弓を持って窓際に立つ。
瞳を閉じて呼吸を整える。ゆっくりしている時間はない。今、この時もたくさんの人が“ヤツ”らに捕食されているのだ。
だから、凰君。千紗を守るためにも君の力を貸して欲しい。
そう心の中で彼に語りかけると、私は静かに瞳を開き獲物を見据える。
千代姉から教わった通りに構えて弦を張っていく。ゆっくりと、しかし確実に。目標(まと)から目を逸らさず―――その眉間に鋭く刺さる矢をイメージする。
ふっと、力が抜けた瞬間。張り詰めた弦が放たれ、何も番えていなかったはずの弓から真っすぐと細いモノが飛んでいき―――次の瞬間には断末魔を上げて化け物の1体が地に倒れる。
それを見届ける間もなく私は次を構えてもう一度放つ。また断末魔を上げ、化け物はひっくり返るように倒れた。
けれども、何処から湧いてくるのか⋯⋯最初は1体だけだったのに、周りにはどんどん化け物達が現れて来る。
これでは埒が明かない。ここから狙えない場所から来られたら全滅もあり得る。そう考えた私は、急いで職員室に向かい屋上の鍵を取ると一気に駆け上がった。
屋上に着くと私は急いで塔屋に上がり、また呼吸を整えてから構える。やはりと言うべきか⋯⋯四方八方に化け物どもは陣取っていた。いったいどこから出てきて、何匹いるのかも分からない敵を前に―――私はただ、ひたすらに弓を射る。
何度射っても、後から後から現れて終わりが見えなかった。
それでも⋯⋯指から血が出ても腕が疲労で棒のようでも、この体が動く限りは射続けようと⋯⋯化け物たちに食い下がる。
そうしてどのくらいの化け物たちを倒した頃だろうか。
晴れ渡っていた空は夕暮れを経て夜の帳をおろし始めていた。
少し乱れた呼吸で塔屋から校舎周辺を見ると、たくさんの死体の山と血溜まりが広がっている。大きな獣達は見る影もなく、周辺は束の間の静寂に包まれていた。
私はやっと終わったと安堵すると、その場にへたり込む。もう一射も撃てない程に、腕も手も疲労と怪我で辛かった。
それでも、私は最後の力を振り絞ってスカートの裾を切り裂き、切れた指に巻きつける。
きっとこれが最後じゃない。生き残るためには、まだあの獣達としのぎを削り合わなければならないだろう。
その前に出来る限りの手当てをしなければ。
私は疲れた体に喝を入れると急いで保健室まで行き、救急セットと包帯と毛布を1枚拝借して一度教室まで戻った。
残っていた生徒たちは、教室の隅に身を寄せ合って恐怖と戦っていたらしい。私は事情を簡潔に伝えると、千紗にこのまま弓を借りていいか伺い、許可が出たので自身の鞄を持ってまた屋上に向かう。
その際に千紗も荷物を持って一緒に来てくれ、また塔屋の上に上がり、いつ来るか分からない化け物たちを警戒しつつ―――2人で見張りを交代しながら夜を明かした。
夜が更けていく中、動き回る化け物はいたけど、昼間よりもその数は少なかった。それでも、その図体のでかさと奴らの進路にある家を一撃で瓦礫にする程のパワーは驚異的で、近づかれたらひとたまりもないだろう。
最後の一匹を射殺して一息つく。最初に見張りをしてくれた千紗はすやすやと安らかな寝息をたてている。
私は千紗の頭を軽く撫でると、少しずつ白んできた空を見上げてようやく訪れた安息に身を委ねた。
そうして静かな夜明けは過ぎ去り―――鉄の匂いと不快な咆哮が響き渡る朝がやってくるのだった。
2/6/2025, 4:07:04 PM