デッサンばかりを描いてきた。
物事において最も美しいのは、存在でも、大きさでも、色でもない。形だ。
余計な要素は要らない。
ただ、物によって異なる陰影を、歪むことのない他者との境界を、描きたい。
だから、デッサンが好きだった。
影の中から輪郭を浮かび上がらせて、光を加えて、段々と、画面の中にその形ができていく。
あまりに美しいではないか。
無骨な黒鉛で引かれた線がまた、美しかった。
僅かにぼやけ、紙の表面に柔らかな黒を残していく鉛筆の音が好きなのだ。
線を描く度に丸くなる筆先も、削り直す時の木を削る感触も、微かに匂う確かな木の匂いも。
デッサンというのは、絵画において最も完成された美しさだと、私は思っている。
そんな私には、気に食わない男がいた。
美大受験のための予備校で、いつも隣に座る男。能天気で、煩くて、とことん私とは趣味が違う。
奴はどうやら「天才」らしい。
筆運び、構図、正確性、独創性。どれを取っても飛び抜けていて、美大への現役合格も夢でないなんて持て囃されている。
ああ、嫌いだ。
物の形しか愛せない私は、もう何年浪人しているか分からないのに。
どうして、そんなに楽しそうに全てをこなせるのだ。
どうして、一枚の絵にそんな多様な色を使うのだ。
色は嫌いだ。私の、私だけの世界が、踏み壊されるような気がする。奴らはいとも容易く境界を滲ませ、私の愛する明確な形を曖昧にぼかしてしまう。
色を付けた絵は私には煩すぎる。派手で、眩しくて、吐き気さえ催す。
だから、デッサンばかりを描いてきたのに。
「ねぇねぇ、君の絵、僕が塗ってみてもいい?」
なんて、あまりに無垢に聞いてくるものだから、呆然としたまま頷いてしまった。
翌日渡された風景画は、やっぱり美しかった。
丁寧に水彩で塗り重ねられた色は、写真とは確実に違う独自の世界を描いていて、しかし見るものを惹きつける光がある。私には、到底描けない。
やっぱり、色は嫌いなのだ。
こんなにカラフルな色は、私には似合わない。私には、美しすぎて。
その日、私は筆を折った。彼には何も言わず、予備校を辞めた。
随分遅れた就活だったが、どこも人手不足の世界だ。少しまともぶっていれば、こんな年齢からだって就職先は決まった。
私の世界は、これでいい。デッサンと同じ、無機質な他者との境界だけがある白黒の世界。
彼の見たカラフルな世界は、どう足掻いたって私には見られないものだった。私には、到底届かない世界だ。
空だけが、ただ青く澄んでいた。
テーマ:カラフル
5/2/2026, 8:49:40 AM