〈光と霧の狭間で〉
夕方のグラウンドに、薄い霧がかかっていた。
最後の一本を跳び終えた僕は、息を切らしながら膝に手をついた。
足が思うように上がらない。タイムは今日も自己ベストに遠く及ばない。体は動いているのに、気持ちばかり空回りしているようだった。
チームメイトの笑い声が遠くで弾む。その明るさが、妙に遠い世界のものに思えた。
帰り道、夜風がまだ熱を帯びた体を冷やしていく。街灯の光がぼんやりと滲んで、まるで霧の中を歩いているようだった。
家に着くと、台所から包丁の音が聞こえた。母が仕事から帰ったばかりなのに、もう夕飯の支度をしている。
「おかえり、練習どうだった?」
「まあ、普通」
いつもの返事をして、靴を脱ぐ。
母は振り返らずにフライパンを振りながら、次の日の弁当用の卵焼きを焼いていた。カウンターには翌日の夕食の下ごしらえをしている野菜が並んでいる。
「すぐご飯できるから、着替えてきなさい」
その背中を見て、何も言えなくなった。疲れているはずなのに、母は止まらない。
そんな姿を見たら、「練習で足が上がらない」なんて泣き言、どうしても言えなかった。
食卓につきながら、なんとなくテレビをつけた。ニュース番組の特集で、陸上の五輪選手のインタビューが流れている。
去年のオリンピックで入賞を期待されながら、まさかの予選敗退──僕が中学のころから憧れているハードラーだ。
「一番辛かったのは、努力の方向が分からなくなった時でした。まるで霧の中にいるような」
「そんなときは、もう何も見えない。
でも、霧の向こうには光があるって信じて進むしかないんです」
画面の中の彼はそう言い、静かに笑った。
「誰に相談しても、答えは自分の中にしかない。
だから僕は、まず自分と向き合うことから始めました。
何が怖いのか、何が欲しいのか、ノートに書き出したんです」
箸を持つ手が止まった。
あの人も霧の中を走っていたのか。
結果を残せなかった悔しさを背負いながら、それでも前を見ている。
「弱さを認めることは、逃げじゃない。スタート地点を確認する作業なんです。
そこから、一歩ずつ霧を抜けていけばいい」
彼の笑顔とその言葉が、胸に染み込んできた。
食器を片づけて立ち上がると、母は台所で明日の夕飯の下ごしらえをしていた。
「何か手伝おうか?」
僕が言うと、母は手を止めて笑った。
「いいのよ。あんたは勉強しなさい。学生の本分なんだから……
あ、でも明後日もお弁当いるんでしょ?」
「うん。大会の前の日だから、軽めでいいよ」
「そう。じゃあサンドイッチにでもしようか」
母は鍋の火を弱めながら、淡々と段取りを立てていく。
その声を聞いているだけで、不思議と心が落ち着いた。
部屋に戻り、机に置いたノートを開いた。今日の練習の反省を書き出していく。
足の上がりが悪いのはリズムの問題かもしれない。フォームを見直そう。
ページの端に、あの言葉を書いた。
──霧の向こうには光がある。
窓の外を見上げると、街灯の光が薄い霧を照らして、ぼんやりと浮かんでいた。
見えにくくても、そこに光はある。
僕はペンを置き、静かに息を吸い込んだ。
光と霧の狭間で、僕はまだ走っている。先が見えづらくても。
でも、その足はもう、確かに前へと向かっていた。
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1日1作、30日続きました。ヤッター!
読後感ほっこり系ばかり、勢いで書いてる話を読んでくださってありがとうございます。
自分が書いたものを読み返すのに少し疲れるので、リライトして別のところにアップしようかとも思います。挿し絵も入れられるといいね。
10/18/2025, 4:17:23 PM