読んでくれてありがとう

Open App

頭の上に広がるだだっ広い青い空を見つめると、世界の終わりなんてないんじゃないかと思えてくる。
だが現実には世界の終わりというのは着実に迫ってきていて、ヒロトも地球温暖化による異常気象に頭を抱えていた。
暑さに歪む空気を睨むと、ヒロトは再びコンクリの道を歩く。
汗でシャツが張り付き、気持ちが悪い。太陽を背に、ヒロトは早く家へ戻ろうと足を早めるのだった。

ガラガラと音をたてて引き戸を思いっきり開ける。
コンビニのように寒いくらい冷たい空気がばーっと流れてきてくればいいのだが、家の広さのせいだろうか、玄関まではクーラーの冷気が届いてこないのだった。乱暴に靴を脱ぎすて長い廊下を歩く。
突き当たりにあるキッチンに着くと、扉ががたつく古い冷蔵庫を開け、お茶を取り出す。冷たい緑茶が体の芯に染みるのを感じると、彼の姿が見当たらないことに気づいた。
こんな暑いのに、縁側でぼーっとしているのだろう。彼は縁側が好きだった。厳密にいうと庭が好きだったのだ。手入れもせず草しか生えていないのに、彼はそこをずっとぼーっと眺めていた。草だけの大海原を見つめる彼の瞳は、澄んでいた。
お盆とグラスを出して、緑茶を注いでやった。もし熱中症にでもなったら大変だ。

縁側に、鶯色の着物を着た彼が座っていた。やはりあの澄んだ目で、庭に生い茂る雑草を眺めていた。
「リョウ」ワンテンポ遅れて、こちらを振り向く。色素の薄い茶髪が揺れた。
「ヒロト。おかえり。お茶持ってきてくれたん」
2人の間にお盆を置いて座る。
「お前が熱中症になると思って」
やはり喉が渇いていたのか、リョウは結露でできた水滴をこぼしながら、ごくごくと喉を動かしている。もうこちらを振り向くことはせず、目は一途に大海原に向かっていた。
「リョウ、何を見てる」
「ねこ」
「ねこ?」
そんなものはここに住み始めてから一度も見たことがない。ねこ?そんなものが、ここにいるのだろうか?
「ねこ、可愛いのがね。春が過ぎたから、子猫もいる」
「へえ、どんな猫なん」
「わからない」
「え?」
「もう昔のことだから、忘れてしまったよ。でも、とても可愛い猫」
「子猫がいるって言ってたやないか」
「見たことはないよ、でもきっといる。猫は春と夏に子供を作るからきっと。あのね、発情期の猫は可愛いんだよ。特に春は。浮かれ猫って言って、家を留守にしてまでいろんなところで恋をするんだよ、赤ん坊のような声を出して、それで...」
「可愛い子猫が生まれる」
夢を見るような瞳は、濃緑の草地を眺めていた。
リョウは時々おかしなことを言う。それは子供の時からそうだった。そのせいか、小さい頃はよくいじめられていた。
でも、ヒロトはそんなところが好きだった。リョウみたいな人間はいない。彼には独特なところがあった。リョウ以外の人間は全て複製品なのではと思えて、気味が悪かった。だからヒロトは唯一無二のリョウに縋った。見たくないものからはなるべく目を逸らして、リョウと親しくふれあい、親や知り合いたちと比較し、幸福を感じるのだった。
「リョウ」
返事がない。
「リョウ」
ピクリと肩が動いた。
「着物、暑くないの、それ」
「ううん、涼しいさ。別に不便じゃないよ、むしろtシャツなんかよりこっちの方が落ち着く。今度ヒロトも着てみてよ、僕のかすから」
「似合うかな」
「さあ、いつも洋服ばかりだから...どうだろうか。でも、洋服はよく似合っている」
しゃべって喉が渇いたのか、残りの緑茶を一飲みするとこう言った。
「ヒロトは何にでも似合うんじゃない、きっと。」
「今度ね、着てみるさ」
そう言って縁側に寝転ぶ。空の青と太陽の光が目を刺した。広いこの世界に、終わりなんか来るのだろうか?その疑問を思い出したヒロトは、リョウに聞いてみることにした。彼なら何か知っているのではと言う微かな期待を胸に。
「世界の終わりって、あると思う?」
「あるよ、始まりがあれば終わりもあるって、全てのことに言えるんだよ」
「いつやと思う」
「わからないなあ、今かもしれないし、何兆年も後かもしれない...始まりも終わりもわからないんだよ。これも全てのことに言えるさ」
リョウはヒロトの横に寝転んだ。着物が羽のように広がった。横を向いて転がっており、瞳は相変わらず庭を見つめている。
「世界の終わりが今だったら、どうする」
「今でもいいよ、終わりは、ヒロトといる時がいい...。ああでも、猫をもう一度見れないのは悲しいなあ」
「そんなにいい猫だったんか」
「ヒロトみたいなね」
鶯の羽に抱きつき、茶髪越しに庭を見つめた。ここに本当に猫がいるのだろうか。一面濃い緑。雑草...。こんなところにわざわざ猫が来るとは思えなかった。リョウの見間違えだったんじゃないだろか。
「あ」リョウが起き上がった。
「今見た?なんかいたよ。やっぱ」
「猫か?」
「どうだろう」
「猫、もういなくなったんじゃない」
「かなあ、ここに住んでいるんだと思っていたんだけどなあ」
リョウは、今度は庭ではなくこちら側を向いて寝転んだ。
「ヒロト」
「僕ね、もう世界の終わりでもいいやって思ったよ」
僅かに湿った、唇の感触を感じた。

6/7/2023, 12:12:08 PM