「天国と地獄、行くならどっちが良い?」
もう2人しかいないオフィス。キーボードをカタカタと打つ音だけが何時間も鳴っていた中、先輩は言った。
「…なんですか?かかりくさのない。」
「いやあ、ふと気になって?」
この先輩は俺の教育係に配属されてから、俺が教育かかりになっても尚ずっと隣のデスクに座っている。
そしてたまに二人きりになる残業の時間、突発的に質問を始める。
「またそれですか…。天国と地獄でしたっけ?」
「うん。ちゃんと考えて答えてね〜」
2人共口だけ動かし、手はしっかりキーボードを叩いている。この作業にももう慣れたものだ。
資料を作成しながら俺は考える。
天国と地獄。入社前の俺なら即決で天国だっただろうが、俺はもうこの変な先輩のことをわかっている。嘘でも熟考の末出した結論じゃないと納得しないのだ。
天国を想像する。全体的に白や黄色のイメージで、裸の子供の天使が矢を持って飛んでいる。不思議と人がいるようには思えない。俺は天使には詳しくないから、セラフィムやケルビムと言った名前のついているだけの全身真っ白なイケメンを配置しておく。そして奥へ進んでいくと、アダムとイブが禁断の果実を口にしてしまった原罪のきっかけとなった木が見えてくる。
次は地獄を想像した。赤や黒。芥川龍之介の蜘蛛の糸を読んでいるときに想像したものや、幼い頃絵本に出てきたものを脳内で再構築する。血の海、針山、舌抜き、体を引きちぎろうとする鬼。そして陰鬱な表情で真っ白の服に三角の布を頭につけた人間が長蛇の列を作っている。全員、自分が裁かれ天国へ行けるのがいつかいつかと待ち望みながら徐々に希望を失っている。
交互に天国と地獄を思い浮かべる俺を先輩はニヤニヤと笑いながら見ている。
その様子を見ていると、この正体不明で摩訶不思議な上司を戸惑わせてみたいと思った。
「…あんたは、どっちなんですか。」
質問に質問を返したのが初めてだったからか先輩は少し面食らったあと、んー、と言いながら考える素振りを見せた。
「…地獄、かなあ。」
手を止めて、俺にはさんざんもっと考えてから答えてよなんて言うくせに5秒で答えを出した先輩を見る。
「なぜ。」
「えー?この残業自体地獄みたいなもんだし、これより酷いってならもう体験してみたいくらいだから。」
言い終わり勝手に満足した先輩は、デスクの恥においてあるミンティアを5つほど食べた。
そしてまた5つ出し、俺に差し出す。
「…どうも。」
受け取り、ボリボリと食べながら思考する。
先輩は地獄へ行くのか。
ミンティアが口の中で溶けてなくなったと同時に俺は、答えを出した。
「決まりました。」
「お、どっちー?」
ヘラヘラしている先輩の顔に、真正面に向き合う。
「………………………両方、です。」
長い沈黙。
蛍光灯の音やパソコンのモーター音がよく聞こえるほどの静寂が、何秒も続いた。
「………なぜ?」
先輩は笑顔を消し、不可解なものを見るような熱い視線を俺に向ける。
俺の言葉がクリアなまま先輩に届くよう、深呼吸する。
頭が熱い。声が震えそうなのに気づかないふりをして、言った。
「あんたと一緒なら、天国と地獄も行ってみたい」
目を見開く。口をぽかんと開ける。数秒して、頬を染める。
先輩の表情や顔の動きが、鮮明に見えた。
「…それは…、その、……」
普段からペラペラと御託を並べる先輩が、今、初めて、俺によって狼狽し言葉を紡げないでいる。
俺は先輩から目を離さないように、じっと見る。
思えばずっとそうだったんだ。俺はこの人を、無意識の域ですら戸惑わせ、狼狽させ、当惑させたいと思っていた。
誰に何を言われても軽やかな蝶のように躱して、海月のように揺蕩うこの人を。
俺の手で、それを壊してみたかった。
未だ口をハクハクと動かすだけの先輩を、見つめる。
これがどんな結果になるか分からない。
だが分からずとも、やらなければならなかった。
例え嫌われても突き放されても、俺は。
だから、それを承知の上だから。
先輩は決心したような目で俺を見て、真っ赤な顔のままその口を開いた。
5/27/2024, 11:40:57 AM