何年振りだろうか。
空を見上げたのは。
ぽっかりと大きな満月が浮かんでいた。
遠くの人工的で暖かな光に掻き消されたのか、星は真っ黒に塗りつぶされていた。
冷酒の辛さが喉に沁みた。
小舟の上の夜は真っ暗だ。
ぷかぷかと細波が船縁を叩いている。
空を見上げる。
心に浮かぶ、家族の顔。
仕事仲間の顔。
友達の顔。
思わずため息が漏れた。
どこまで流されれば、波の気は済むのだろうか。
きっかけは仕事の依頼だった。
とある南国の島から依頼があった。
海の種を蒔いてほしい。
俺の家は代々、種蒔き屋をしている。
海には、海の命の素となる海の種。
山には、山の命の素となる山の種。
川には、川の命の素となる川の種。
枯渇した土地に、災害や戦争で死滅した環境に、対応した種を蒔いて、自然の復活を陰ながら手助けするのが、俺たちの家の使命で、仕事だ。
種といえば不思議なもののように見えるだろうが、最近の流行りに乗っ取って科学的に説明すれば、DNAとミトコンドリアと葉緑素と生殖細胞……いわば命の素となる物質を凝縮して、細かく集めた粉たちである。
聞くところによると、その島は、火山灰に埋もれてすっかり命の気配がなくなってしまったらしい。
そういうわけで、俺は島へ向かった。
そして、島内の港でこの小舟をいただいて沖に出た…
海は灰色だった。
火山灰のせいだろう。
俺は舟の舵をゆっくりと回して、海へ出た。
その時だった。
感じたことのないような、不可思議な風が吹いた。
潮が、アナログテレビの巻き戻しのように逆回りして、小舟を担いで、遠く遠くへ運んでいった。
そして、今に至る。
潮はまだ、俺と小舟を捉えたまま、離してくれない。
島は、付かず離れずの所に見えて、どうやっても近づけない。
さて、困ったものだ。
種蒔き屋は計画通りに進む仕事ではない。
こういう予想外も日常茶飯事だ。
だから、のんびり構えて機を伺っていたのだが…
もう、沖に出てから1ヶ月が経つ。
さすがに長すぎる舟旅だ。
思わず空も仰ぎたくなる。
やれやれ
俺は、瓢箪を傾ける。
これは入れたものを無限に沸かせられる、泉の瓢箪。
代々、俺の家に伝わっている呪物の一つだ。
今は、極上に美味しい冷酒が入れられている。
幾ら、俺たちがどんな環境でも生きられる丈夫な種族だとしても、飽きはあるし、海の上で1ヶ月過ごすのは退屈だ。
それにしても、冷酒にもだいぶ飽きてきた。
ああ、水が飲みてぇ。
もうちょっとマシなものを入れときゃ良かったな。
空を見上げて、心の中にそんなことが浮かんだ。
7/16/2024, 1:47:18 PM