シャイロック

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さよならは言わないで

 大学生の時、好きになった人は、既婚者だった。通信教育課程でスクーリングに行っていた私は、体格も顔立ちも態度も、非常に大陸的な同級生に急に挨拶されて驚いた。まったく見ず知らずだったから。それから毎日挨拶を交わし合ううちに、私はどんどん彼に惹かれていった。
 そんな私の幼い恋心に、彼は付き合ってくれただけなのだろう。授業の合間に話をしたり、お茶を飲みに行ったり、美術館に行ったりと、手も握らない、現代では考えられない恋だった。なにしろ、50年も前の話だ。
 通信制は、普段は家で勉強し、レポートを単位数提出して合格しなければならない。それにスクーリングで授業を受けた単位をもらって、取得単位が満ちれば進級、卒業となる。
 そのスクーリングの短い間、彼とこうしていられたらそれでいい。終わったらお別れだ。私は自分なりにそう決めていた。
 約40日の過程がすべて終わり、これが最後という日、「解団式をサボってお茶しに行こう」と彼が言った。「そうだね。単位に関係ないもんね」と、2人で御茶ノ水の坂を降り始めた。A教授は厳しすぎるとか、B教授は面白かったとか、民事訴訟法が難解だとか、楽しく笑い合いながら歩いていた。
 そう、楽しかったのに、ふいに、押し寄せるように涙が湧いてきた。私は被っていた麦わら帽子で慌てて顔を隠した。急に黙った私に気づいて、彼は「どうした?」と帽子を取ろうとするが、私は両端をしっかり掴んで離さなかった。
 私の気持ちを察して、彼は2歩ぐらい前をゆっくり歩いていく。涙を拭いて帽子を被った頃、彼は振り向いて「さよならは言わないでね」
 先手を取られた、と私は思った。だが、また涙が出ると困るので、黙って頷いた。大きな手が差し出されたので握手をして、私の小さな小さな恋は終わったのだった。
 

12/4/2024, 3:54:42 AM