sairo

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ここは安全だと誰もが言う。
皆優しく、親切だ。困っている時には嫌な顔一つせず手を差し伸べ、悩み事があれば、まるで自分のことのように一緒に悩み答えを探してくれる。

安心していられる場所。それがここなのだという。
だから、不安など感じてはいけない。悲しみや心細さを口にすれば、それは周りの人たちに対する裏切りになってしまう。

そんな気がして、いつしか何も言えなくなってしまった。



晴れ渡る空の下。行きかう人々は皆、笑顔を浮かべている。

「おはよう。今日もいい天気だね」
「おはようございます。そうですね。天気がいいと気分も晴れていく気がします」

交わされる挨拶。和やかな談笑。
今日もこの場所は穏やかさに満ちている。

「おはよう。調子はどう?」

友人が笑顔を浮かべ、こちらに歩み寄ってくる。
いつもと変わらない笑顔だ。彼女は今日も幸せらしい。
この場所は安全なのだから当然か。当たり前なことを思い、内心で苦笑しながら友人に手を振った。

「おはよう。調子は悪くはないけど、ちょっと眠いかな」
「夜更かし?」
「今日はいつもより暖かいから、そのせいかも」

そう言って欠伸をかみ殺す。眠気と戦う自分に彼女は笑い、手を引いて歩き出した。

「どこ行くの?」
「裏の原っぱ。そこで少しお昼寝をしようよ」

歩きながら、友人は大きく欠伸をした。それにつられて、つい欠伸が出てしまった。
くすくすと笑う声。気恥ずかしくなり、軽く俯いた。
繋いだ手に力を込める。同じように手を握り返してくれる。たったそれだけの行為が、何よりも嬉しい。
伝わる熱に、自然と笑みが浮かぶ。このまま眠ってしまえば、きっといい夢が見られるはずだ。今から眠るのを密かに楽しみにしていれば、友人はもう一度欠伸をしながら、何気なく呟いた。

「この場所は安全だからね。どこで寝たって安心だ」

その言葉に、一瞬で楽しみが消えて行ってしまう。
代わりに込み上げるのは、得体のしれない不安。掻き消そうにも消えないそれに、小さく息を呑む。

「どうかした?」
「ううん。何でもない」

こちらに視線を向ける友人に、慌てて作り笑いをしながら首を振る。
気づかれてはいけない。不安が込み上げる度、何故か強くそう思う。

「いい夢が見れそうだなって。そう思っただけ」
「確かに。いい天気で、暖かくて。そんな時に見る夢は、きっといい夢に違いないね」

空を見上げて、友人は眩しそうに目を細めた。
心から楽しみにしているのだろう。その穏やかな表情を見ると、不安があることが申し訳なくなってくる。

「そうだね」

気まずさに視線を逸らしながら、相槌を打つ。
安心を信じ切れていないのだろうか。自分でも理由の分からない不安に息苦しさを感じて、さりげなく目を伏せた。

「――あれ?」

ふと、遠くで微かに声が聞こえた。
耳を澄ませてもはっきりとは聞こえない、その声。酷く不快で、耳障りな笑い声。

「どうしたの?」

思わず眉を寄せれば、それに気づいた友人が心配そうに顔を覗き込む。
彼女には聞こえていないのだろうか。片耳を塞ぎ、視線を巡らせながら呟いた。

「笑い声が聞こえる……聞こえない?」
「笑い声?聞こえないけどなぁ……」

首を傾げ、友人も耳を澄ませている。けれど声は次第に小さくなり、風に紛れて聞こえなくなってしまった。

「聞こえなくなった……何だったんだろう」
「大丈夫?気分とか悪くなってたりしない?何だったら、今から診てもらおうか?」

今にも泣きそうな友人に、大丈夫だと笑って見せる。
笑い声が聞こえただけだ。大げさだと首を振り、繋いだままの手を軽く引いた。

「大丈夫。きっと寝足りないんだ。寝たらきっとすぐに忘れちゃうよ」
「そっか……そうだね。じゃあ、早く行こうか!」

少し迷う素振りを見せながらも、友人は笑って手を引き歩き出す。
空耳だ。気のせいだ。そう自分に言い聞かせながら、胸の中で燻る不安から必死に目を逸らしていた。





ふと、目が覚めた。
辺りは暗い。枕もとの時計を見れば、ちょうど日付が変わったころだった。
喉の渇きを覚えて、ベッドから抜け出す。足音を立てないよう、ゆっくりと部屋を抜け出した。

暗く静まり返った廊下は昼間とは全く別の顔をしていて、どこか恐ろしさを感じるほどだ。だというのに、何故か安堵している自分がいた。
恐ろしいことに、安心する。逆に、安全だと言われる度に、不安が込み上げる。正反対な思いを不思議に思いながら、台所に続く扉を開けた。

「――この、声」

微かに聞こえる笑い声に、眉を寄せる。
外からだろうか。勝手口に近づきながら、耳を澄ませてみる。

――くすくす。けらけら。

嫌な声だ。まるで自分が笑われているようで、落ち着かない。同時に、誰が笑っているのかが酷く気になった。
そっと扉に手をかける。ゆっくりと開けば、笑い声がはっきりと聞こえだす。

「山の、奥からだ」

耳を澄まさなくても聞こえる声に、外へと足を踏み出した。
誰も足を踏み入れたがらない山の中。安全ではない場所から声は聞こえてくる。

「行かないと」

何故か、強く思った。
靴を取りに行く手間すら惜しんで、裸足のまま笑い声の方へと歩き出す。
地面の冷たさが心地良い。体が軽く、段々と早まる足は、いつしか走り出していた。
行くな、危険だと警告する思考を、行かなければという衝動で押さえつける。
行かなければ後悔する。そんな焦燥感に突き動かされて、足は迷うことなく山の奥へと進んでいった。



そうして辿り着いた高台中腹に、笑い声の主はいた。

――くすくす。けらけら。

今時珍しく、着物を身に纏った美しい女性。袖で口元を隠して笑い続けている。
人を見下した笑い方ではない。本当に笑ってもいないのだろう。
只管に笑い続けるその目は、少しも笑っているようには見えなかった。
真っすぐにこちらを見据える黒い目。その強さに、視線を逸らすこともできずに、呆然と立ち尽くす。
怖い。嫌だ。逃げ出したい。そう思うのに指先一つ動かせない。体の震えを止められない。

――けらけら。

不意に、女性が笑いながら動いた。こちらに近づくのではなく、まるで背後の景色を見せようとするかのように脇に避ける。
ごくりと唾を飲み込んだ。開けた視界の先から目が離せない。
そこからは、皆が安全だと言っている場所が見下ろせるはずだと、そう感じた。

気づけば、足を踏み出していた。
見てはいけない。戻れなくなる。
そう思うのに、足は止まらない。見てしまうことの不安よりも、本当を知って安心したいという気持ちが強くあった。

笑う女性の隣に立ち、そっと下を覗き込む。

「――あぁ」

嘆きとも、安堵ともつかない声が漏れた。

眼下に見える、安全だと言われた場所。
確かに安全だろう。辺りに何もなければ、危険などあるはずもない。
どこまでも続く森に囲まれた場所。ひっそりとした森には、生き物の気配は感じられない。
見せかけだけの森。おそらくは、この場所を囲うためだけにあるもの。
ここは楽園と言う名の箱庭だ。

「檻の中にいるみたい」

ぽつりと呟く声に、女性の笑い声が止まった。
視線を向ける。細まる目と視線を合わせ、問いかける。

「どうしたら、この檻から抜け出せるの?」

口元を隠している手が、山の頂上を指差した。
露わになった紅い唇が、緩く弧を描く。こちらを見つめる目も細められ、優しい笑みを形作った。

「――ありがとう」

頂上へと続く獣道に足を踏み入れながら、小さく呟いた。
その声が聞こえたのだろう。背後から、ふふと笑う声がする。
ずっと聞こえていた声とは違う、柔らかな笑い声。それが気恥ずかしくて、衝動的に走り出す。
足の痛みは感じない。どんなに走っても、息が切れることもない。

ここは夢の中なのだろう。
ようやく気づいて、笑われていた意味を理解した。

「早く、目を覚まさないと」

親友の意地悪な笑顔が脳裏に浮かび、眉を顰めながらも笑う。
今も待っているのだろう。素直でない彼女は、きっと目覚めた自分を笑い、涙を隠してお寝坊さん、とでも言って戯けるのだ。
その光景が目に浮かび、堪えきれず笑い声が上がる。

「帰らないと」

呟いて、速度を上げる。
近づく頂上の先が白み始めている。

朝が来るのだろう。
綺麗なだけの嘘の青空ではない、時に厳しい本当の空に繋がっているはずだ。

安心だけの世界はいらない。不安があるからこそ安心できる。
矛盾しているなと笑いながら、朝日の向こう側へと飛び込んだ。



20260125 『安心と不安』

1/27/2026, 8:32:31 AM