涼やかな深夜の公園を散歩していた私は、小さな茂みの陰で悲しげな表情を浮かべて座る一人の女性を見かけた。
歳は私より上のようだったが、彼女の透き通るような白い肌は、まるで熟れた梨のように湿潤な質感を持っていた。
彼女を見ていると、どうしてか彼女を見放してはいけないという妙な衝動にかられる。
「私でよければ話を聞きますよ」
私は無意識に彼女に話しかけていた。
梨乃(りの)と名乗った彼女は、淋しげな視線を私に向けながら、長年連れ添った夫の急な死によって家を追われ、一文無しになってしまったと告げた。
「それならあなたにぴったりな仕事があるわ」
私はそう言って、梨乃を父が営む小さな食堂へと案内した。
店の中は穏やかな静けさに満ちていた。
私は梨乃を連れて店の奥にある厨房へと歩みを進める。シンプルな白いエプロンを腰に巻き、作業途中で材料や器具が放りっぱなしの調理台に向かう。
私は街で手に入る旬な食材を使って、新たな商品開発を進めている途中だった。そして今取り組んでるのは『梨』を使ったメニュー。今夜中に具体的な試作を一品完成させておきたかった。
「一緒に魅力的な新メニューを考えてほしいの」
梨乃にそう告げると、彼女は心なしか自信のない表情を浮かべる。
「そんな重要な仕事、私のような素人にできるかしら」
「そんな心配しなくても大丈夫。ひとりじゃ行き詰まってただけだから。いろんな視点で考えた方がうまくいきそうでしょ?」
商品開発は朝方まで続いた。様々な試行錯誤の末、とうとう料理が完成する。
梨を使ったナシゴレン、その名も『梨ゴレン』。
ナシゴレンは鶏肉や海老などの様々な食材と一緒にご飯を炒めた東南アジア風のチャーハンである。
そこに豊かな自然が育んだ二十世紀梨を、まるっと一個分使った贅沢な新感覚チャーハン。
味付けはケチャップをメインに、隠し味にほのかな醤油の香りをプラス。シャリシャリとした梨の不思議な食感が癖になること間違いなしだ。
私は大きな白い皿に盛られた梨ゴレンを前に、確かな幸せを感じていた。
「すごくいいと思う」
「私もそう思います」
目標を成し遂げられたという達成感に、私と梨乃は顔を見合わせて笑みを浮かべた。
父が目覚まし代わりにセットしたステレオのタイマーが作動し、スピーカーがかすかな振動を始める。軽快なショパンの調べが店内に響いた。
まだ眠そうな仕草を見せながら父が厨房へと降りてくる。私と目が合うなり、父が頭ごなしに声を上げる。
「まさか、睡眠もなしにやってたのか?」
「今日で完成させておきたくて」
普段から頑固な性分の父の小言を軽くいなしながら、父に渾身の料理を差し出す。
「梨ゴレンよ」
「こんなしょうもない駄洒落なんぞ話にならん」
父の冷ややかな視線が皿と私を行き来する。
「偏見無しに、まずは食べてみて」
父はスプーンで梨ゴレンをすくって口へと運ぶ。しばらく黙り込んだあと、口元の深く頑健な皺をくいと引き上げて小さく頷いた。
その父の無言の返事が、この料理が成功したという確かな証拠だった。
「お前ひとりで作ったのか?」
「いえ、有望な新人さんのおかげよ」
私が梨乃のことを告げると、父は眉間に訝しげな皺を寄せた。
「誰も……いないじゃないか」
ふと辺りを見渡すと、そこに梨乃の姿はなかった。
「おかしいな……。さっきまでいたのに」
唐突な静寂(しじま)に秋の風が吹き、調理台に一枚の紙切れが揺れる。
『あなたの料理に対する真摯な姿勢は
ひとつひとつが確かな雫となって落ちていく
それはあなたの心にいくつもの波紋を織り成して
いつか壮大なシンフォニーを奏でるでしょう』
柔らかな詩のような言葉が、ショパンの豊かな調べと呼応する。
胸の奥で、梨を噛んだ時のようなじゃりっとした感触がして、私の心がじわりと甘美な汁で満たされていく。
#梨
10/14/2025, 7:08:30 PM