七雪*

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 自分の存在証明は容易い問題だろうか。
我思う、故に我ありとは有名な哲学者の言葉である。
自分の思考は確かに存在している。つまり、それに伴い自らの存在も立証されるという論であると一般的には捉えられている。

 加えて、有名な哲学の一つに、世界五分前仮説という物がある。全ての存在、ついては記憶までもがたった五分前に創られたと唱える説である。この説はあくまで別の論の説明を補足する為に引き合いに出された考えではあるが、自らの存在について再考するには充分な議題であると言えるだろう。現在、私という存在は確かに存在しているとしても、過去の私は必ずしも存在したと言えるのだろうか?過去の存在を証明するものは過去に創造されたとされる建築物や形跡、自らの記憶と他の生命体——ここでは人間とする——との共通意識に限られる。私達人間にはある程度の学習能力が備わっている。私達の祖先が長い年月をかけて培ってきた文化と叡智を享受して、私達は生存している。種の繁栄は、過去無くしては成り得ないのだ。しかし、世界がたったの五分前に構築された物だとしたならば?私達に過去など存在しない。私達は脳に刷り込まれた記憶を頼りに、過去という存在を盲目的に信じているだけだ。過去が存在しなかったという事は、それ即ち、過去の私は『存在しなかった』という事になる。現在と過去を直接繋ぐものは、所詮、不明瞭で形を持たない記憶しか無いのだ。我思う、故に我あり。私の思考は、一体何処から生じたのだろうか。二律背反の問いの中で私達は存在している。

 追記するとしたならば、私の存在は私一人の認識で成り立っている物では無いという事だ。人は長きに渡り集団での生活を行ってきた。現代でも、私達は人と人とのネットワークを介して生存しているのが常であろう。互いの繋がり、互いの認識を得る事で、記憶の中に人は存在している。よりわかりやすく例えるならば、死者の存在だ。死者の存在は、生者の記憶と、生前に遺した痕跡によって成り立っている。しかし死者の存在証明に、より重きを置くべきは生者に残った記憶の方だ。死者に関する記憶が存在しなければ、生前に遺した痕跡も、死を示す墓石すら、只のガラクタに過ぎない。墓石に至っては、何の意味も持たない石の塊に成り果てるのだ。

 以上を持って、自らの存在証明を行うには、自らの思考と他者との繋がりが必須となるだろう。如何に考えようとも、結局答えは出ない、というものが私の現在の見解ではあるが、何事も考え様だ。ただ一つ、私からここまで読んでくれた貴方に伝える事があるとするならば、思考を止めるな、ということだけだ。

3/31/2023, 2:03:30 AM