特別な存在
右足が寒かった。布団から出ていたから。
康太は明日死ぬことに決めた。連日の雨とは打って変わってカラッと晴れた一日だった。康太はカーテンを閉めた部屋で一日中蹲っていて、たまに窓を開けたり、叫んだり、そんなようなことをしていた。 数日と笑っていないような気がし、なんだかそれがおぞましく感じた康太は、突然ニカッと笑ってみせて、それは何とも悲しげな笑顔だった。
沈んだ黒目をした康太は夕暮れ過ぎに立ち上がり、風呂場へ向かった。水道代を払っていないため、無論水は一滴たりとも出なかった。康太が今まで会ってきた人がそうだったように、眼前の蛇口は康太に興味を示さなかった。康太はまた同じような足取りで布団に向かっていった。
康太がその次目を覚ましたのは昼頃だった。目を開けるのが億劫だった康太は、白んだ視界のまま衣服を選んだ。お洒落好きだった康太がそうしたのは、今日が死ぬ日と決めたからだろう。康太は油汚れのついた眼鏡をかけた。今日に限って用意周到な康太は、交通カードを財布に入れ、数ヶ月ぶりに有線イヤホンを耳につけた。それは数ヶ月ぶりにしてはよく馴染んだ。
康太が曲を聴きながら、かといってそれは娯楽のための音楽にはなく、押し寄せる雑踏をかき消す目的の音楽だった。攻撃的な金属音が鳴っていた。
康太が今日、わざわざ鈍行列車を利用するのは、昔住んでいた街にちょうどいいビルがあったからだった。それは言い訳のようなもので、昔の街に挨拶もせず死ぬのはどこか気に食わなかったのだろう。
康太はビルの屋上にいる自分を想像した。それがどうしようもなく無機質で、康太の丸まった背中には冷たい熱湯がかかったようだった。
康太は向かう列車の中で、興味もない広告を見ながら辞世の句を考えていた。遺書なんて書くほど生きることを期待されていないと思った康太は31字くらいが丁度いいと、回らない脳みそで上の句から考えていた。そうこうしているうちに電光掲示板は見慣れた駅名を表示し、康太は重い腰を上げた。
ビル付近につくと、鈍色の街の冷たい様子に丁度嫌気が刺した頃だった。外側についた螺旋階段を一段、一段と登る康太は死にに行くというよりは、何かを達成したようだった。
ビルの屋上に着くと、夕日が差し込み目が眩んだ。今更ながらなんだか怖気付いて、柵に捕まり下をのぞき込むと、そこは交差点だった。この方角に落ちたら迷惑かかるなぁなぞ要らぬ心配を入れる康太はやはり根がすこぶる繊細にできていた。交差点にはこの距離でもわかるほど背の曲がった老婆が歩いており、その荷物を青年が持っていた。その老婆は康太の祖母によく似た服を着ていて、なんだかそれに懐古の念を抱いた。
確か康太が19の頃、祖母は肺癌で亡くなった。その時は悲しい素振りひとつ見せなかった康太も祖母の死を悲しんでいるように交差点を見つめていた。辞世の句になんとか祖母のことを入れられないか考えた。
信号が青に変わると、車が一斉に走り出した。
赤い車が一台。黒が三台。白が二台。黒はもう一台。
康太は身を乗り出し、落下した。
3/23/2026, 7:00:29 PM