空模様
ステージに立つ者として、どこまで気を配るべきか。ここに正解はない。ただ言えるのは、最高の時間にできるなら出来る限り気を配るべきであるということ。
コンクールの最終日、スタッフに冷房の温度まで訊いている男がいた。黒髪マッシュの青年は初めて見る顔だ。新人くんだろうか?
「冷房止めたりは……はい。そうですね。難しいですよね。ごめんなさい。ありがとうございました」
肩を落とす新人。
彼は冷房を止めて演奏したかったが、断られたから落胆。まあ当然の結果だろう。ここは彼のコンサートではなく、コンクールなのだから。
とはいえ彼は新人。コンクールのシルバーコレクターとして声をかけ、後悔ない演奏をして貰うのが努めるべきではないか。
絶対王者、村田ひなを倒す仲間として。
「あまり気落ちしないようにな」
「ええ……ありがとうご——え? 高尾、さん?」
「ん? ああ、高尾圭だ。よろしく」
「え、ええええええ! 俺あなたに憧れてヴァイオリン始めたんですよ!!」
僕を壁に押しやる勢いで迫る彼。
というか、対して年齢も変わらない彼が僕に憧れて?
どれだけ小さい頃の話なのだ。
「あなたのヴァイオリンといえば、繊細でありながら——」
「わかったから。ありがとう。それより今のコンクールだろう? どうして冷房を止めたかったんだ?」
彼は深呼吸してから語った。
「音が変わるからです」
「どんなふうに?」
「音の速さは気温によって変わるじゃないですか。実際感覚としてこの変化を捉える人が多いので調整したかったんです」
なるほど。どうやら彼の耳はとても良いらしい。
音の速さなど感覚でも捉えるのは難しい。実際そこまで気にしないプロも数多いるだろう。
ただ、そこまで耳が良くなくてもわかってしまう状況というのもある。たとえばオーケストラでコンサートマスターが座る席から、1番遠い席に座るヴァイオリニストは音のラグを感じる。
コンクールが基本的にヴァイオリンのみの演奏ではなく、ピアノと合わせる状況だからこそ気配りが必要だ。
もっとも僕はそこまで気にしないが。
だからこそ思う。
「君はすごいヴァイオリニストだ」
音を届ける以上、聴く誰かがいる。
その誰かにどこまで気を配れるか、それは奏者の技量に依存する。出来るから気を配るのだ。彼はそれが出来る。だから彼はすごいヴァイオリニストなのである。
しかし、ここはコンクール会場なのだ。
「高尾さんは気にならないのですか?」
「気にならないわけじゃないけど、気にしないんだ。だってみんな等しく与えられた状況で差を測るのがコンクールだろう? あまり空模様ばかり気にしていても仕方がない」
「……変えようがないから、ですね」
「うん。この猛暑日で観客に聴くに堪えない状況を強いたら元も子もないと僕は思う」
彼は小刻みに頷きながら、言葉を咀嚼する。
「俺たちの仕事は与えられた環境下で音を最大限伝えること……ということですね」
とても聡い子だ。
納得した彼はお辞儀をすると駆け足で控え室に向かっていく。
「あ、名前」
名前を聞くのを忘れていた。
しかし、僕は後に知る。
金賞として読み上げられる名前。
——山内慎吾
天才、村田ひなを超えたヴァイオリニストである。
8/20/2024, 1:33:41 AM