紅月 琥珀

Open App

 季節外れの雨に降られて、私はずぶ濡れになりながらも何とか近くのバス停に逃げ込んだ。
 そこは既に廃止された場所だが、まだ待合室は機能していて突然振られて雨宿りする人に重宝されている。
 私が小さい頃に良くこのバス停に家族や友達と来ていたが⋯⋯数年前に廃止されてからはこの辺に来ることもなくなり、あの頃よりも活気はなくなっていた。
 濡れた体や荷物を拭きながら、もう来る事のないバスの待合室で雨が止むのを待っている。
 どうせ来る人は私の様に運悪く降られた人だけだ。
 濡れた教科書やノートを広げて乾かしても問題ないだろうと荷物を広げる。割と中身は無事なようで、乾かす物は少なかったが⋯⋯鞄を乾かすために中身は全て出して、なるべく乾くようにと気合で雑巾絞りをした。
 びちゃびちゃと流れ落ちる水に辟易としながら、私は制服も絞れるところは絞ってあとはタオルでなるべく水気を取り、一段落した所で1つ溜息を零す。

 季節外れの雨は土砂降りと形容するのが相応しいほどの勢いで降っている。その光景を待合室のガラス戸越しに眺めていると、1人の男の子が走りながら待合室に入ってきた。
 私は急いで広げていた荷物を退けると、その子は会釈で答えて自身を持っていたハンカチで拭き始める。
 何の会話も無かったが、何故か私は変な安心感と懐かしさを感じていた。はじめて会うはずなのに、どこかで会ったような⋯⋯そんな違和感を覚えた。
「お互いに災難でしたね」
 急に話しかけられて驚いたが「そうですね、季節外れも良いところです」と咄嗟に返す。
「あの日もこんな雨の日でしたから、少し懐かしくもありますよ」
 彼がそんな事を言った。まるで私達ははじめて会った訳では無いと言うような―――そんな語り口で私の心が少しざわつく。
 何か大切なことを忘れているような、そんな焦燥感を覚えつつ⋯⋯私は彼に先を促す。
「あなたと僕はあの日、この場所でバスを待っていたんです。一緒に出掛ける約束をしていて、でもその日は生憎の雨で少しバスが遅れていました」
 そう話す彼の言葉を、聞いてはいけないと脳が警笛を鳴らす。ズキリと頭が痛くなっていき、呼吸も荒くなる。
「ここはバス以外にも車の通りが多かったんです。色んな場所に行く通り道でしたから、その車もきっと急いでいたのでしょうね。結構なスピードで走っていて、雨でスリップしてしまい何とかブレーキを踏んで止まろうとしたけれど、この待合室に突っ込んできたんです。
 僕は咄嗟にあなたを庇いました。それが功を奏したのか、あなたは何とか一命を取り留めた。
 僕はあなたが生き延びてくれて良かったと、心底思いました。それは今でも変わりません。」
 その言葉と同時にバチンと何かが弾ける感覚がして、今まで忘れていた記憶が波のように押し寄せてくる。

 大好きだった彼とはじめて出掛ける日だった。何日もかけてその日着ていく服を選び、バッグや靴もそれに合わせて選んだ。
 その日は生憎の雨だったけど、彼とバスの待合室の中。2人きりで過ごせるのは幸せで、今日一日はきっと素敵な日になるんだって思い疑わなかった。
 ガラス戸越しに止まない雨を見つめながら話していた時、猛スピードで車が通り過ぎようとしてスリップし、こちらに突っ込んできたのが見えた。
 でも私は動けなくて、ただ彼が自分のいた場所と私の座っていた場所を交換したのを覚えている。
 狭い待合室だったから、位置を交換しても2人共車に潰されたけど⋯⋯突っ込んで来たのは私の居た場所だったから、彼は帰らぬ人となった。
 私は何とか一命を取り留めるも、その事実に耐えられずその記憶と彼に関する記憶を封印してしまったというわけだ。
 なんて薄情な話だろうか。
 大切で大好きだった彼は、私の命の恩人でもあるのに⋯⋯私のせいで死んだも同然なのに、私はその辛さから目を背け忘れる事を選んだ。
 自然と涙が溢れて止まらない私に、彼は優しく頭を撫でながら続ける。
「僕はあなたを恨んでないです。ただ、僕はとても我儘だから、あなたに⋯⋯大切なあなたに忘れられたままなのが辛かった。自分の気持ちを、伝えられなかったのも後悔しています」
 そう言って彼は私と目を合わせると、優しい⋯⋯大好きだった笑顔でこういった。
 “愛しています”と。
 そうして涙でぐちゃぐちゃの私を置いて、彼はふわりと消えていった。

 成仏したのか、まだこの場所に居るのかは分からない。
 待ってと言いたかったのに、言う前に消えてしまった。でも言い逃げなんて許さないし、私に記憶を思い出させたからには覚悟して欲しいとも思うのだ。
 私は自分の荷物を手早く片付けて家路につく。
 帰るなりお母さんに詰め寄って彼のご実家の住所と電話番号を聞き出し、週末にアポを取って両親と訪問。
 そこで私が彼と冥婚したいと抜かしたものだから、双方てんやわんやになり必死に止められるも私の決意は変わらず⋯⋯結局私の両親の方が折れた。
 それから私は彼の写真を彼の両親に頂いて、その筋で有名な場所へ行き、自ら事情を話して冥婚をした。
 その日の晩に夢に出てきた彼が、それはもう慌てていたが知った事ではない。
「あなたが私を愛しているように、私もあなたを愛していたの。自分のせいであなたを亡くして、それが辛くて忘れてしまったけど⋯⋯思い出させたのはあなたなんだから、その責任を取って。
 私が死んでも、生まれ変わったとしてもずっと愛してよね」
 そう言った私に少し困った様な⋯⋯けれど嬉しそうに彼は笑った。

5/18/2025, 2:00:36 PM