卒業式をとうに終えて、私は春休みを持て余していた。親の許す限り、気の向くまま、ぷらぷらと町中を歩き回ることすらあった。平日に知り合いと会うことは滅多になかろう。高を括って、私はありえない路地に入り込んだ。河原の草原をひた走った。
そうしていると、生き慣れた田舎があたかも出先の見知らぬ街のような、奇妙な印象を醸すことがあった。私はその現象を散歩の醍醐味と呼んだ。
ある時、ふと思い立って桜を見に行った。家から歩いて数十分の場所に、江戸の昔から大桜が生えていた。
「桜の下にひとりでいると、やがて気が狂う。」とはよく言うが、そんなことはあるまいと思った。
桜の下には、防火水槽を示す標識が1本突っ立っていた。何とはなしにそいつへ寄りかかって、私は長い間こずえを仰いでいた。美しかった。上気した爪のような花びらがちらちら、ちらちらと、道や私や標識の上へ降りて来る。花曇りの空に、木の輪郭は滲んでいる。もう満開を過ぎていた。赤紫の葉がまだらに芽吹いている。それが妙に醜かった。切り傷にぷくりと染み出た、血の玉みたいだったので。
そのうち飽きて、私は桜を眺めるのを辞めてしまった。感傷を頭の内で言語化するだけの装置にでもなった気分であった。靴元に落ちていた、柔らかそうな花を選んでタオルハンカチに包んだ。手ずから持ち帰ったそれらは百科事典へ挟んだ。
今年の春、私は十七になる。
何の因果か、その直前に当たる今、坂口安吾の「桜の森の満開の下」を読んだ。
すっかり押し花になったであろう、あの時の桜を引っ張り出す気にはならない。
4/3/2026, 6:13:41 PM