薄墨

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とうとうここまで来てしまった。
腕の中の柔らかい重さが、悲しい。

目の前にはふわふわのベビーベッドがある。
書類は、封筒に入れてしまってある。
準備は完璧のはずだった。
覚悟も完璧のはずだった。

腕の中で、大きな目がこちらを見て、笑った。
ふっくらとした丸い顔で、私を見て…にっこり、笑った。

今日は、この子がご機嫌だ。
今もこうして、小さく、あまりに柔らかいその手を、精一杯に空に伸ばしながら、ニコニコと笑っている。

ごめんね、なんていう言葉すら、相応しくないように思えた。
本当は、今感じている罪悪感と無力感と悲壮のままに、泣き崩れたい、そう思う。
しかし、涙は流れない。流すわけにはいかない気がした。

この子も、人間なんだから。私とは違う人なんだから。私が勝手に憐れむのも、憎むのも、愛するのさえ、お門違いだと思う。
こんな私の腕に抱かれて、ご機嫌に楽しそうに笑っているこの子の顔に、自分の都合とエゴに塗れた感情を、ぶつけてはいけない。
そう思うから、私は固い表情で、この子を抱いて立ち尽くした。

お互いに好き合っていたはずだった。
アイツが、私を使い捨てて、睡眠薬と精神安定剤が増えて、今日でもう10ヶ月が経った。

アイツに捨てられてから、希望なんて一つも見えなくて、ずっと家の中にいた。
これからどうなってしまうのか、私の未来に何が待ち受けているのか。
先が全く見えなくて、未来なんてない暗闇の中に取り残された気分で、泣いてばかりいた。

病院には行った。
食欲がなくなって、夕方の街中に漂ってくる、まともな人たちのまともな食べ物の匂いだけで、あらかた胃液を戻した時に、行った。
行って、帰って来てからも、泣いてばかりだった。

どうすればいいか分からなかった。
子育てをする気力も活力も精神力も残っていない。
就活も、人間関係も、パートナー選びさえ、怠惰と落ち着きの無さから失敗して、自分一人を養うのでさえボロボロな私に、何ができるのか。
何をできるというのか。何もできないのに。
生命活動のための睡眠でさえ、できなくて、毎夜、錠剤をまとめて飲み込んでいる私に。

だから、探した。
どうしようもないこんな私が、どうすればいいのか。

そして、見つけた。
ここに、引き取ってもらおう。そして、まともで、私よりずっと賢くて、優しくて、そういう人たちに育ててもらおう。
そう決めた。

決めても、でも、不安はおさまらなかった。
私はやっぱり、毎日泣いてばかりいた。
不安だった。
切符を買い、道と交通手段を調べて、それから病院に通う。
それでも不安で、苦しくて、どうしようもなかった。

あの子の顔を初めて見た時、私は、あの子がこの世に生まれてから、ずっと泣いてばかりだったことに気づいた。
初めて空気を吸って、顔をくちゃくちゃにして泣き叫ぶあの子を見て、「泣いてばかりいてごめんね」そんなことを思った。

柔らかく、ふっくらと愛らしい体を持って生まれたあの子は、健康に可愛らしかった。
何かがあれば懸命に訴えて、ご機嫌な時はにっこりと笑って、一人の時は手足を真剣に動かしていた。
生命力に溢れ、一生懸命なあの子は、血の繋がっているだけの他人なんだ、と思えた。
あの子は、一人の人間なんだ。目尻や鼻の形こそ、私に似ているけれど、あの子は、私ではなくて、私から生まれた別の人間だった。

だから、私は、当初の予定通りにバイバイしようと思った。
あの子は可愛くて、どうしようもなく私の手元に置いておきたい、そんな衝動が何度も込み上げたけど。

でも、あの子は一人の人間だった。
あの子の人生を背負う力も、資格も、私にはなかった。
どうしようもない自然な衝動に、問題なく従える存在では、私はなかった。

だから、私はここに来た。
看護師さんもお医者さんも、私の意見に頷いてくれて、親身になって、ここまでの道を教えてくれて、優しく送り出してくれた。

今の私の目の前には、ふわふわのベビーベッド。
私には、こんな清潔で可愛らしいベビーベッドを用意するなんて思いつかなかった。

だから、あの子のためにバイバイするべきなんだと思った。
そんなことすら思いつかない私なのだから。

最後にあの子を優しくあやして、ゆっくりとベビーベッドに寝かす。
あの子が丸い目で私を見つめている。

「バイバイ」
私は言った。
「バイバイ。あなたはあなたの人生を生きるんだよ。自分で幸せを掴める人生を生きるんだよ」
私は言った。
何かが、頬を伝った。
ご機嫌なあの子の、ふっくらした頬に、水滴が落ちた。

私はあの子から離れる。
どうしようない衝動を抑えて、ゆっくり向きを変える。
バイバイ。
触れたベビーベッドの毛布の、ふわふわで温かいミルクの匂いが、手の甲から微かに香った。

2/1/2025, 3:10:36 PM