俺は、この世の全てを、恨んでいた。
俺が物心着く頃には、遠い国境線付近で戦争が始まった。
命に換えても俺たちを守る、と言った俺の父ちゃんは、間もなく村を出て行ったっきり、戻ってこなかった。
奴らが来た時にも、父ちゃんは守ってくれなかった。
俺は奴らにつんのめるほど小突かれて、母さんにナタを振り上げた。
姉ちゃんは泣いていた。
声を押し殺して、苦しげに泣いていた。
あれから、俺は一度も家族に会えなくなった。
少しして、俺は、俺より少し年下の嫁と少しの土地をあてがわれた。
奴らに強制的に渡されたものだった。
俺は、奴らから逃げるつもりだった。
逃げて、他の国に行くつもりだった。
一生親友だ、と笑い合ったアイツと、アイツの家族と、俺たちで、土地も何もかも放り出して、逃げるはずだった。
アイツは裏切った。
俺の知らないところで。
俺の妻は、アイツに売られた。
俺は一人、妻がそんなことになっているのも知らないまま、のこのこと逃げ延びた。
全て終わった後に知った。
俺は、言語すら知らないこの地に、一人で放り出された。
何もわからなかった。
親切な奴はいなかった。
みんな、俺の向こう側にある自分の利益ばかりに目を向けて、何も知らない俺をさんざ振り回した。
みんな、膨れ上がった偏見だらけの、この国の正義を振り翳して、俺をさんざ痛めつけた。
気がついた時には、何もなかった。
先も見えない中で、日雇いの力仕事に出て、デカいだけのデクノボウみたいな体を引き摺って、安いボロアパートで眠り込んで、蔑まれて、怖がられて、仕事以外ずっと一人で暮らしていた。
糞だった。
俺の人生に幸せな記憶なんて、1ミリもないのだ。
俺の人生、何一つ価値などないのだ。
そんな人生を作ったのは、世の中だった。
だから俺は、こんな世界も、過去も、何もかもを恨んでいた。
恨みの中を生きていた。
ある日、良い仕事がある、と言われて、俺たち日雇い組は、先輩に乗せられて、とある山村へ訪れた。
地域でも有数の高い山の山腹に、その村はあった。
雲雀が鳴いていた。
山の中腹の狭い土地に、小さな民家と、ちんまりとした畑が段々になって、広がっていた。
木々の枝が開けた空(くう)に青い空が覗いていた。
そして、畑の先の茂みの向こうに、木々に囲まれて、灌漑施設のため池だろうか、小さな湖が、水面に太陽の光をたたえていた。
静かな湖面に、水が穏やかにさざなみだっていた。
俺は、小さかった時のことを思い出した。
まだ父ちゃんがいて、母さんが俺を抱えて姉ちゃんの手を引いていた、あの時に、みんなで村のため池を見に行ったことを思い出した。
湖面の水の煌めきと、父ちゃんの誇らしげな笑い声と、母さんの優しげで温かな体温と、姉ちゃんの幼く明るいはしゃぎ声があったことを思い出した。
ちんまりとした畑に、青々と葉が茂って、実が重たそうになっていた。
俺は、妻と暮らしていた時のことを思い出した。
監視の奴らの休日に、二人でのんびり湯を飲みながら、水を撒いて、日光浴をした時のことを思い出した。
青空に投げ出される水の飛沫と、固く力強く茂った作物の緑と、妻のはにかむような柔らかな笑顔を思い出した。
雲雀が鳴いていた。
俺は、アイツと語り合い、笑いながら空を見上げた時のことを思い出した。
あの日の空は、突き抜けるように真っ青で、雲は、シルクよりも真っ白だった。
太陽の眩しさと、アイツの軽快な言葉を思い出した。
そして、そのどれもがなぜだか、満ち足りたような温かさを伴っていた。
それが幸せだというのだ、と、俺はもう知っていた。
俺の人生には、幸せな記憶もあったのだ。
今は、俺は俺の人生を生きようと思っている。
恨みではなく、過去ではなく、今を。
今を生きる、と決めている。
雲雀が鳴いている。
空は青く晴れている。
7/20/2025, 2:47:00 PM