ぺらぺらぺらぺらぺらぺらぺらぺらと、本当に良く回る口ですね。
里佳子の血色の悪い唇を、私は頬杖をついて見ていた。あれだ、ボクトウガの幼虫に似ておる。
里佳子は大学時代のテニスサークルの友人だった。大学時代にテニスサークルなんぞに籍を置いていたことすら半分忘れかけ、里佳子という名の友人はもはや忘却の彼方であったが、律儀にも名前と連絡先を覚えていたスマホを通じてメッセージが届き、大学卒業以来5年ぶりにランチをご一緒することになったという次第であった。
(来るんじゃなかった)
イカとマイタケのアラビアータ・スパゲティを啜りながら、私は貴重な休みを無駄にしたことを嘆く。
安心を得ようと思ったのだ。
毎日毎日家と職場の往復で、たまの休みは趣味の昆虫採取のために自然公園や山林を飛び回る変な女。それが私だ。
彼氏はおろか友達すらまともにおらず、家の中は虫と虫を採ったり飼ったりするための道具でいっぱい。親に泣かれ、妹に笑われ、職場の同僚にドン引きされるに至り、さすがにマズイと思い始めたのが先月の話だ。
久しぶりに会おうという里佳子からのメッセージは、脅迫めいた不安に苛まれていた私にとって、救世主に等しいものだった。
全く覚えていないが、テニサーという無駄に煌びやかな響き、大学時代の友人という青春の食い残しのような中途半端なポジションもいい。
一片の興味もないのにとち狂ってテニサーなんかに片足を突っ込んでいた過去の自分を褒めたい気分だった。大丈夫。私はまだ大丈夫。私には、休みの日におしゃれなカフェで一緒にランチを摂取する友人(覚えてないけど)がいる!
そう思って待ち合わせた里佳子は、せっかくのリゾットにも手を付けず、飲むだけで光楼気が満ちて絶対幸福の奥義に通じるという「光楼気水」の話ばかりしていた。今なら2ℓでたったの1万円という超お手軽価格だそうなのだ。どうしよう、私は、水は水道水しか飲まないって決めてるのに・・・・・・。
初夏の日差しも穏やかな午後であった。爽やかな羽音が踊り、誘われるように天を仰いだ。ストレスで半眼になっていた私の頭上を駆け抜けたのは、艶やかな水色の複眼を輝かせた、立派なギンヤンマであった。
「あ・・・・・・」
完成されたメタリックな美しさに、思わず吐息が溢れる。なんて雄々しく、自由なのか。それに比べて、私はくだらないことで不安になり、愚にもつかない話ばかり聞かされている・・・・・・。
何だか可笑しくなり、私は無造作に右手を伸ばし、
「ボクトウガ!」
水の話を続ける里佳子の唇を鷲掴みにして黙らせた。
目を丸くした里佳子の唇が、ふがふがと蠢き、私を喜ばせる。
「あはは。里佳子、ごめんね。光楼気水って、コオロギ水みたいな響きで私は好きだけど、水は塩素がたっぷり入った水道水しか飲まないと決めてるの。それよりあなたの唇って、ボクトウガみたいでとっても素敵・・・・・・。でも本物が見たくなったから、ちょっと山に行って来るわね。ばいびー!」
呆気に取られた里佳子の唇に、残したイカのミミを突っ込んでから、私は千円札を2枚置いて席を立った。
今日は、来てよかったのかもしれない。心からそう思う。詰まらない不安を吹っ切ることができた。普通が何だ。これが私だ。彼氏も友達もいらん。いざとなればヨツスジトラカミキリと結婚すればいいのだ。
軽やかな心地だった。良く晴れた初夏の陽気の中を、私は駆けて行った。
(安心と不安)
1/25/2024, 3:34:51 PM