NoName

Open App

「安らかな瞳」

あとは死ぬだけ
死ねないから生きている
死ぬために生きている
必死で…。

広美は空を見上げて
声にならない心の声を呟いた。

その言の葉がスーッと春まだ浅い仄かに温い空気の中に吸い込まれ白く空に昇って行った。

弥生三月春彼岸。

見渡す限り雲ひとつない

碧色の広く美しい空に白い飛行機雲が渡った。

「空が裂けるようだ…」今度は声に出して呟いた。

すると、その切り裂かれた碧色の空と白い飛行機雲の白い線が垂れて一本の雲の糸のように
広美の目前に広がった。

少し氷に触れるような冷ややかさを感じる風に揺れる白い雲の糸。何処からともなく声が聞こえた。

汚れちまった 悲しみに 
今日も小雪の 降りかかる

汚れちまった 悲しみに
今日も風さえ 吹き過ぎる

汚れちまった 悲しみは
たとえば 狐の革裘

汚れちまった 悲しみは
小雪のかかって縮こまる

汚れちまった 悲しみは
なにのぞむなく ねがふなく

汚れちまった 悲しみは
倦怠のうちに死を夢む

汚れちまった 悲しみに
いたいたしくも 怖気づき

汚れちまった 悲しみに
なすところもなく 日は暮れる

          山羊の詩 中原中也

はっと、目が覚めたように我に返る

温かな午後の日差しが、その部屋に伸びていた。

古本屋の裏にある書庫。

広美が育った海辺の街の古い古い監視塔その脇の辻から商店街に続く路にその店はあった。

昔は薬屋を営んでいたそうで、何代か前の主人の道楽で古書店も始め、今じゃあ集めた古書は
石蔵の書庫に眠っている。

そこは、広美の母方の実家であった。

広美は物心ついた頃からこの書庫にある古い本を絵本代わりに育った。

その中の一冊の中に挟まっていた便箋に認められていた詩が中原中也という歌人の有名な詩だと知ったのは、それから後のこと。

十四歳になる春彼岸。
白日夢のような思春期の霧がかかった世界にいる広美には空から降った白い雲の糸のような詩であった。

便箋には二枚目があり

こう綴られていた。

僕は、明日大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所に向かいます。

ただ倦怠のような僕の人生が、後にこの忘れ去られた手紙を読む誰かに届きますように。

僕は、そのために逝きます。

安穏とした春彼岸の碧色の空を切り裂いた飛行機雲その後にぶら下がる白く輝く雲の糸は電光石火広美を撃ち抜いた。

胸に抱きしめた便箋
石蔵の小窓から外を見つめる、穏やかな瀬戸内の凪の浜辺にある丸いテトラポットに生える苔を広美は見つめ続けた。


いつかの海神たちの
傷ついて剥がれた鱗がつもり深い碧色に輝いて見えた。

広美は白日夢の扉を自分の手で開けた。


ちょっと、梶井基次郎の「檸檬」にインスパイアされてます(笑) 


            碧色 曽良


















3/15/2026, 4:01:46 AM