sairo

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「――は?」

部屋の扉を開けた瞬間に広がる光景に、暫し硬直する。
目を閉じ、開いてみても変わらない。一度扉を閉めて、深呼吸をする。
いるはずのない何かがいた。いるはずはないが、見覚えのあるものだった。

「疲れてるのかな」

眉間を揉みしだき、溜息を吐く。意識ははっきりしているとは思うが、まだ夢の中にいるのかもしれない。
頬を抓る。鈍い痛みに、ここは現実だと告げられて眉が寄る。夢でないならば、幻覚でも見たのだろうか。
ゆっくりと扉を押し開く。見たくないと思いながら扉の向こうの景色を視界にいれ、変わらぬそれに溜息をついた。

「なんで……どうやって、入り込んだよ」

廊下に転がる、数匹のイタチ。見覚えがあるのは、数日前に同じように道端に転がっていたその姿と全く同じだからだろう。
尤も、数日前は急な暑さで倒れており、今は部屋から漏れ出る冷気を堪能しているようであるが。
一番近くで寝転ぶイタチと目が合う。無言で見つめ合っていれば、何度か目を瞬いて起き上がる。

二足歩行で。

「――は?」

違和感しかないはずなのに、違和感をほとんど感じない。
目を瞬いて見ていれば、自身の尾を抱き寄せ毛を掻き分ける。そうして毛の中から取り出されたのは、見覚えのある一本の鍵。
誇らしく掲げ持つ水色のリボンの巻かれた鍵は、この家の鍵に違いない。
田舎特有の、外の玄関脇に置いてある植木鉢の下に置いてあった予備の鍵。置いたのは自分であり、文句など言えるはずがない。
納得しかけて、慌てて首を振る。もう一度扉を閉めれば、ようやく違和感が恐怖を引き連れてきて、ふるりと肩を震わせた。

「何、今の……?」

理解が追いつかない。
二足歩行のイタチ。
予備の鍵を取り、玄関を開けて。尾の中に鍵を忍ばせて廊下で涼んでいた。
しゃべらなかったのが、せめてもの救いだ。

「どうしよう」

逃げ出したいが、扉を開ければイタチがいる。どうすれば良いのか思いつかず途方に暮れていれば、不意に扉が叩かれた。

「あの、すみません」

少しばかり高めの声がする。

「えっと、何度か呼び鈴を鳴らしたのですが、お出にならなかったので……今日は一段と暑かったものですから」

すみません、と泣きそうな声。
その言葉に窓の外へと視線を向ければ、雲ひとつない青空と容赦のない日差しが地面を焦がしているのが見えた。
一瞬、このまま窓から外へ逃げだそうかと考え、けれどすぐに否定する。
裸足で陽炎の立ち上る地面に降り立つ勇気はない。そもそも家主は自分なのだ。こそこそと、泥棒のように逃げ出す真似はしたくない。
視線を扉に戻す。謝罪の言葉が聞こえたきり、何も聞こえない。
少しだけ、気になった。
この扉の向こう側にいたイタチは、今何をしているのか。
何故、家に押しかけてきたのか。
二足歩行をし、人のように話せるのはどうしてなのか。
違和感が引き連れた恐怖などとっくに消え去って、残るのは疑問ばかりだ。
廊下で伸びるイタチの姿を思い出す。だらしのない、伸びきり溶けた体。目が合った瞬間の、あの夢見心地だった瞳。億劫だと言わんばかりの、ゆっくりとした立ち上がり方。
恐怖する要素はどこにもない。あるのは違和感と、それによって沸き上がる疑問だけだ。
そう思うと途端に力が抜けて、扉に手をかけた。悩み、逃げ出したいと思っていた事が馬鹿らしく、躊躇なく扉を開ける。

「――あ、ども」

扉の向こうで律儀に待っていたらしいイタチが頭を下げる。
見れば、先ほどまで廊下で伸びていたイタチ達も皆起き上がり、こちらを見つめている。
見れば見るほど、意味の分からない光景だ。

「説明してもらってもいいかな」

ちらちらと部屋の中を気にするいくつもの視線に肩を竦めながら、招き入れるように扉を大きく開け放った。





「助けてもらったお礼がしたい、と」

確認のために繰り返すと、目の前のイタチは何度も大きく頷いた。

「お礼、ねぇ……」

部屋のあちこちで寝転がり、伸びて時には仰向けに転がるイタチに視線を向ける。
最初で見た時よりも明らかに数が増えている。口の端を引き攣らせながら、気にしては負けだと目の前のイタチに視線を戻した。
イタチ曰く、数日前のあの梅雨の晴れ間。急な気温の上昇に対応しきれず動けなくなっていた所に、自分が偶然通りがかった。最悪駆除されるか、よくても見て見ぬ振りをされるだろうとあの時は思って諦めていたらしい。だが転がるイタチをすべて木陰の下まで連れて行き、尚且つ近くの自販機で水を買って与えてくれた。

「アナタ様はワタシ達の救世主なのです。ご恩に報いなければなりません」

ベッドの上で転がるイタチが皆一斉に頷いた。
確かに筋は通っているだろう。イタチの気持ちもよく分かる。
助けた生き物が、後日お礼をしにくるというのは、昔話によくあるパターンだ。
しかし、と。目の前のイタチ越しに扉を見る。
扉は閉じたまま。何かが増える隙間など、ありはしない。
視線を部屋に巡らせた。ベッドの上に群がって眠るイタチ。クーラーの下で伸びている狸の山。腰に擦り寄り、脇からそれぞれ出た明るい茶色の尾は狐のもので。膝の上でいつの間にか丸くなっているのは茶トラの猫だ。
増えている。それもイタチだけでなく、様々な動物が。
窓を一瞥するが、やはり開いている気配はない。いったいどこから、という恐怖よりも、どこまで増えるのだろうという懸念が込み上げてくる。

「イタチを助けた記憶はあるけど、その……イタチ以外の動物は、なんで……?」
「勝手に着いてきただけです。ご不満ならば、全力で追い出します」

イタチと猫以外の動物の視線が向けられる。ただし猫は視線の代わりに、長くしなやかな尾を腕に絡めてきたが。
無言の圧力に、乾いた笑みを浮かべて首を振る。膝の重みが増えて視線を向ければ、茶トラの猫の隣に白の猫が寝そべってきた。

「そうですか。ではこれからよろしくお願い致します」
「これからって……えっと、つまり……」
「ご恩に報いるために、これからお側で仕えさせて頂きます」

つまりは、自分の家は動物達の避暑地になるわけか。
頭を下げるイタチに、何も言えずに同じように頭を下げた。
今年の夏は、食費と光熱費が跳ね上がる事が決定したらしい。確実に一桁増える請求書を思い、まだ見た事のない世界に足を踏み入れる恐怖に思わず嘆息する。

「何か憂い事が御座いましたら、どうぞ遠慮なく申しつけ下さい。家事は当然の事、身の回りのお世話も何もかもを行わせて頂きますので。もちろん金銭の心配もありません」

目の前のイタチが胸を張る。
家事。世話。金銭。自分の理解を遙かに超えた内容に、半ば思考を放棄してただ頷いた。
ここはもう、自分の知らない世界だ。害はないのならば、受け入れても問題はないだろう。

「粗茶ですが、どうぞ」
「あ、どうも。ありがとう」

盆を手にしたイタチに湯飲みを差し出された。お礼と共に受け取って一口啜る。
温かなお茶。家にあるティーバックとは明らかに違う味に、目を瞬く。
テーブルの上に置かれた茶菓子も、見た事がないものばかりだ。ひとつ摘まんで口に放る。
素朴だが優しい味に、口元が緩む。

「お気に召されたようで何よりです。これからどうぞよろしくお願い致します」

目の前のイタチが改めて頭を下げた。それに続きイタチだけでなく、部屋中の動物達もイタチに倣う。

「えっと……こちらこそ、よろしく?」

日常から、非日常へと足を踏み出している。知らない世界、まだ見ぬ世界への一歩を、茶を啜り擦り寄る猫や狐の頭を撫でる事で踏み出した。
この夏は、随分と賑やかになりそうだ。
現実逃避染みた事を考えながら、またひとつ茶請けを口に放り込んだ。



20250627 『まだ見ぬ世界へ!』

6/28/2025, 9:55:18 AM