名無しの夜

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 突き進めば、ある種の成功は掴めるはずだった。

 その地位につくためだけに、努力を重ね、辛酸をなめ。

 必死に駆け上がってきた、階段。

 そこに辿り着きさえすれば。

 生涯の一定の安定と恵まれた境遇が約束されているはずだった。


 ラストの決め手となる大きな商談の前に、気まぐれのようにかかってきた一通の電話。


『パパ——私、先にいくね』


 遅出の朝に、ドア越しにかけられるのとまったく同じ声と喋り方だったのに。

 ぞわと背筋が凍りついて。

 それを叩き落とすように走りだしていた。

「今、どこにいるんだ? すぐ行くから、待ちなさい!」


 泣きじゃくる声に、ただただ声をかけ続け。

 自宅近くのビルの屋上で、へたり込む娘を抱きしめた。


 妻が旅立って、十年余り後の出来事だった。

 優しい、手のかからない娘だと思っていた。

 仕事で必死になる間に見えなかった綻びが娘を蝕み——孤立していた。



「パパ、遅刻するよ!」

 ベルとともに、薄い玄関扉の向こうから声が響く。

「はいはい、起きてますよ……」

 腰をさすりながら、手拭い代わりのタオルを首にかけてドアを開ける。

「じぃじ、おぁよー!」

 幼い声に目を細める。

「はい、おはよう」

「これ! 水筒とお弁当!」

 今日も暑くなりそうだから気をつけてよ、と念押しされる。

「わかってるよ、大丈夫だから」

 娘はしかし、さらに二、三の毎日の注意事項を述べて、それから自転車をこぎだした。


 空を仰げば、快晴。

 言われた通りだいぶ暑くなりそうだ、と息をもらす。


 ……あの日。

 あの電話をとらなければ、今頃は老体に鞭打つ生活ではなかっただろう。

 それでも。

 電話に出たからこそ、今が。

 娘と、その孫との生活へと繋がることができたのだと、胸を張って思える。


「さて、本日も頑張りますか——ご安全に」


 安全靴の踵を揃え。

 ゆっくりとアスファルトの歩道を歩き始めた。

6/9/2024, 8:01:13 AM