遥か遠くに稲光が見えた。
見えた方角は、西の方だ。
空は黒く、それまるでお腹をすかせた空の神様が
空腹に耐えきれず、数多の星や月を全部食べてしまった
……かの様だと、船上の甲板の上から西の方角を見ながら考えていた。
数多の星や月を食べ尽くしてしまった空の神様は、
それでも物足りぬ事に腹を立てたのか、今度は
怒り任せに落雷を海上に落とし海を荒げ、もっと食わせろ!と、言っている。
遠くの船上の甲板の上で、西の方角を見ていた私の方にも、海面を上下左右に船を揺らし海面へと引きずり落とそうと必死だ。
海面上を吹き付ける風は、激しく荒ぶる海面の水と共に
私達の体力を奪おうと襲いかかる。
上下左右に揺れる船上で、船乗り達は吹き付ける雨風に負けぬと必死に帆を畳めようとしていた。
ロープを数人がかりで引っ張る者
甲板の上で、転んだ拍子にロープに足を取られ逆さまに宙吊りになった者
上下左右に揺れる船で、体勢を崩し海面へと落下ししてしまった者
船体ごと沈没せぬように必死に、操縦をする人が居なく勝手に回り始める舵を数人がかりで動きを止めている者
荒れ狂う海面と吹き付ける雨風に負けるように
怒涛と指示の声が船上で飛びまわっていた。
私も皆の助けをしようと、右足を一歩出したが
直ぐに、此処は危ないから船内へ!と、肩を捕まれ止められた。抗議を入れたが聞いてもらえなかった…
致し方なく、私は船内へと向かうしか無かった。
振り向きざまに、甲板の上の船員達の無事を祈る事しか
私には出来なかったのだ。
船内へ入ると、私の肩を掴み船員達の元へと行くことを阻止した漢は奥の方から救命胴衣を持って来て、私に渡してきた。これを着けろ!ぶっきらぼうな言い方だった。されど、今まさに皆生き残るか…皆死ぬかの九死に一生の瀬戸際で、こんな言い方になるのも致し方が無い。
私は、彼から救命胴衣を受け取りすぐに着ることにした
この救命胴衣は、下着を着るような履き方をする。
つまり股の部分に上半身から救命胴衣が外れて脱げ無いように紐状の物が股に付いているタイプの救命胴衣だ。
このタイプの救命胴衣は絶対に外れない。
船に乗る時に説明されていた事を私は、救命胴衣を着ながら思い出していた。
救命胴衣を着終わると、付いてきた漢は私の姿を見て
一瞬、満足そうな顔をした。
生と死が別れる、この状況で漢は微かに満足そうな顔をしたのを私は見逃さなかった。それと同時に、私は漢が
救命胴衣を着けていないことを指摘した。
漢は、一瞬黙り込んだが俺の心配はしないでくれ。と
受け流された。何故?私は、聞き返そうとしたそのときだった。船内の扉が勢いよく開いたのだ!
雨風のせいなのか?それとも…上下左右に揺れる船のせいなのか?私も漢も、どちらが先だったのか分からなかったがほぼ同時ぐらいでお互いの顔を見合わせた。
扉を開けた正体は、船員の1人だった…
彼は、全身ずぶ濡れ姿だったが船内には一歩も踏み入らず大声で、船底に穴が空き現在浸水中!
くい止めようと手を尽くしていますが!浸水の速度が速く止めきれません!!このままだと!船体ごと海へ沈ます!!と、同じ言葉を繰り返し叫んだ。
その言葉を静かに聴いていた漢は、なるべく冷静な声で
全船員達へ伝令!救命胴衣を着衣し!
皆、離れ離れにならぬようにロープを掴み
海へ飛び込め!!
その判断を聞いて、船員は一瞬驚いた顔を見せたが
了解!伝令に向かいます!!と、応えると全船員達へと伝令をしに向かったのだ。
長き時間と年月を共にし、私たちを遠くの国へと運んでくれた…この船が沈むタイムリミットが近いのだ。
私が、今居る船内の中には、思い出の代物が飾ってある。絵画、花柄のお皿、スカーフ、貝殻、帽子、髪飾り…数々の国を巡り想い出深い私の宝物たちも、
この船と共に海底へと沈む。
私が想い出の品々を哀しそうな目で見つめていたら
漢が、私の右後ろから優しく…それは優しい手つきで
右手を繋いで、そのまま静か声で話した。
…貴女は、この先も生きて行く人だ。
この船と共に沈んではいけない。
あまりにも、静かな声で話すから私は思わず
彼の方を振り返ってしまった。穏やかな顔をしていた…
何故?そんな…そんな哀しいことを言うのだ!
貴方も救命胴衣を着て!早く!!
私は、まだ救命胴衣を着ていない漢に声を荒げる
雨風にも揺れ狂う船にも負けない様に大きな声で…
それでも、穏やかな顔のままの漢に私は、先程船内の奥から救命胴衣を取り出していたことを思い出し、繋がれた右手を外し奥の荷物箱へと向かう。
後ろから、漢が何か言っていたみたいだが今の私には聞こえなかった。それほどに無我夢中で我武者羅だったのだ。
荷物箱の蓋を勢いよく開け中を見て目を疑った。
そこには、救命胴衣が一着も入っていないのだ…
えっ?なんで?…此処に入っているって…沢山…
私は、訳がわから無いまま…また漢の方へ振り返る。
…とうとう…バレてしまいましたか…
其処に入っていたのは、貴女の分の救命胴衣だけです。
沢山入っている話は…旦那様の嘘です。
貴女を何が何でも生かす為。無事に国へ帰すことが
旦那様の望み。俺は…その命令に従っただけです。
漢は、私に…隠していたのだ。
自分の分の救命胴衣が無いことを
…この航海の旅が始まった日から
ずっと…何年も何年も私に隠し続けていたのだ。
貴方も!生きなきゃ!この船から共に…!
この言葉を話そうと、喉まで声が出かけた時だった。
突如、扉の方から大きな音がした。今度は、屈強な体格の船員が物凄い顔をしていた。その顔は、死を恐れる顔つきだった。
2人も早く!!
開けた扉の外から、海へ飛び込めー!沈没するぞー!
の声が微かに聞こえる。
救命胴衣を着た船員達は、伝令通にロープを握りしめ
次々と海へ飛び込んでいく。
荒れ狂う波に負けぬよう戦っていた、この船体にも限界が来たようだ。船体は、かろうじてバランスを保っていたが徐々に左側へ倒れる様に傾いてきている。
このままでは…本当に危ない!
身の危険を感じた私達は、屈強な体格の船員の元へと
転ばぬ様に足を進めた。
屈強な体格の船員は、私に手を伸ばした為
私も必死にその手を掴んだら船員は、グイッと強く引っ張った為、少しだけ私は体勢を崩したが船員が直ぐに身体を支えてくれた。
正にその直後だった。
バタンッッッ…
私の背後から…聴きたくもない音が…
聴こえてしまったのだ。恐る恐る振り返ると
私の背後には、漢が居ないのだ。
在るのは、閉じられた扉だけ。
漢は…私の宝物たちと船内に残ったのだ…
私は、すぐ船内へ戻ろうとしたが船員がそれを阻止した。
まだ…!彼が!!
暴れる私を船員は、荷物を運ぶかのように
いとも簡単に持ち上げ…そのまま甲板の上を走り
先に飛び込んだ船員たちへの元へと担がれたまま
荒れ狂う海へ飛び込んだ。
私が最後に見た景色は…船体が横向きになり
そのまま海底へと沈んでいくtuonolontano号
彼は、私の宝物と祖国から共に遠くへ旅をして来た船と共に手の届かない程の深い深い光の届かない深海へと沈んでいってしまった。
雨風が吹き荒れ狂う海に飛び込んだ私達
遠く遠く遥か彼方で遠雷の光が見えた。
8/23/2025, 11:35:34 AM