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薄闇の世界を、子供は感覚を頼りに進んでいた。何も見えないが、壁や床の質感と匂いでおおよその居場所はわかっていた。もう、幾度となく歩き慣れた道だ。今感じるのは、埃と石と、古い布の香り。あと少し進んだら絨毯が終わり、石の床になる。そこはあまり人の出入りのない屋上への階段で、子供はそこで朝を迎えるのが日課だった。

小さな子供の体では、城の石の階段は大きく、少し登っただけで息が切れる。もう少し体を鍛えたいと思いもするが、まだ成長途上の身体で筋トレなんかしたら背が伸びなくなる。なんてどうでもいい理由で、面倒な鍛錬から逃げる自分を正当化していた。とりあえず、1度休憩だ。子供は階段に腰掛けて、暗闇の中で息が整うのを待った。

こういう、真っ暗な場所は嫌いではなかった。体がこの暗闇に溶けて、混ざって、世界の一部になっている、そんな気持ちになれたから。そうしたら、自分がひとりだということを少しの間忘れられた。

「うーしそろそろ行くかー」

気の抜けた声を出して、虚無へ沈もうとする気持ちに藁を投げる。掴んだとて浮かべるかはその時次第だが、やらないよりはやった方がマシ、おまじないのようなものだ。 それがいつしか性格になって、孤独な子供の精神を支えていた。

屋上に着いた。天上に目をやると、空がほんの少し明るくなっていた。もうすぐ朝だ。とはいえ、日が昇る訳ではない。日は『既に昇っている』。この世界では日は常に天上にあり、夜の間はその光が弱まる。子供は大の字に寝転がって空の丸を見つめながら、いつものように、情緒が無い夜明けだなと思った。



この時間だけは、子供の陰鬱な生活の中で、かなりマシだと思える部類の習慣だった。

子供はーー子供自身は全く信じていないのだがーー、この世界の神に選ばれるという、王の後継なのだそうだ。数ヶ月前に保護されてからは、城の中で守られながら、衣食住の不安無く日々を生きていた。屋上でひとりきりのように思える今この瞬間でさえも、きっと忍者か暗殺者みたいな役割の人が子供を見張っている。

しかしこの時代、王の後継は子供の他にもうひとりいるのだ。で、そっちが将来的には大変優秀かつ人柄も素晴らしく武芸の腕も天才的な男になる、ということが『決定している』ときたものだから、子供は波風立てぬよう、自分には何も出来ることはありません、というのをアピールして生きていこうと思っていた。実際、子供がどんな努力をしたとて、この体が大人になる頃にはきっと大抵の分野において向こうには負けているだろうなと思っていた。ならば何もせず、政治的な駒にすらならず、努力すらする気のない無能として片付けられていた方が合理的である。そう結論づけた子供の心に迷いがあるとするなら、それはたったひとつ。こんな姿を父が見たら、眉を顰めるかもしれない。そのことだけだった。

かつて、子供の生きる理由は父だった。というか、『自分が大切だと思った人を、出来うる限り大切にする』ということがこの人生における子供の方針で、その大切な人というのが子供にとっては父だった。子供は、父が本当に大好きだった。父のためならなんでもできた。しかしその父が居ない今、子供の日々に意味は無くなった。父があまりに大好きだったから、そして実際本当に偉大な父だったから、子供が城で出会った人々ごときがその代わりをつとめられようもなかった。死ぬ理由がないから生きている、まさにそんな状態だった。

だって、子供は恵まれているのだ。

城の外ではありとあらゆる理由で死ぬ人を見た。それを全て、幼い自分には助けられないからと見捨てて来た自分が、意味の無い日々に飽きたくらいで死を選ぶわけにはいかなかった。自分にとっては憂鬱な今日この一日さえ、昨日死んだ誰かが必死に生きたいと願った一日なのだ。こうして死ぬ選択肢について考えていること自体、これ以上なく無駄に生きている証でもある。

とはいえ日々を無駄に過ごすというのが、今の子供の仕事のようなものだ。虚しい仕事だが、世界の平和のため、子供の安寧な生活のため、この生活を死ぬまで続けなければならない。



気づくと、空の色が深い青色から澄んだ水色へ変わっていた。
父の瞳のような色だ。

この世界のどこかで、父もこの夜明けを見ていたらいいな、と子供は思う。きっと見ている。無気力になってしまった子供が未だに早起きなのは父の影響であり、父は子供より早く起きる人だった。

今日も、夜明けが近づいていた。

4/12/2026, 10:12:29 AM