短編小説『海へ』
日課の散歩の帰り道、いつもはひたすらにまっすぐ進むラブラドールのレイが珍しく草むらに鼻を突っ込んだ。もわりと羽虫が舞う。慌てて手で払い避けたとき、よろめいて草むらに足を踏み入れた。レイが私を見上げる。その足元に何かがある。
石? と拾いあげたのは巻き貝だった。
こんな草ぼうぼうのところに貝殻があるなんて。
不思議に思ってじっと貝殻を見つめているとレイが足元で鳴いた。くうん、と問いかけるような鳴き声。私の手元をじっと見ている。
これ? と聞きながら何気なく巻き貝を耳元で振ると、声がした。
「帰りたい……」
巻き貝が泣いた。
この声が、レイには聞こえていたのだろうか。
レイは変わらずくうんと鳴きながら私の膝裏を鼻先で押してくる。まるでうながすように。
海。ここから歩いて三十分の距離。遠いと言えば遠いけれど、徒歩圏内に海があるのは幸せだ。子どもの頃はそう思っていたのにもう何年も海を見ていない。毎日の生活に追われて存在すら忘れていた。
「帰りたい……」
巻き貝がまた泣いた。
目を瞑る。海までの道を思い出す。
松の林の小道を下って海藻と小枝が散らばる砂浜を抜けて、波打ち際へ。
耳元で繰り返し打ち寄せる波の音が私を誘う。
「行こうか?」
傍らのレイに問いかけると嬉しそうに鳴いた。
海まで歩いてそれから家に連絡して車で迎えに来てもらおう。たぶんその頃なら車通勤の母も帰宅しているはず。
細かいことはあとでいい。今はまず。
海へ一歩。
踏み出したとたんに潮風に包まれた気がした。
8/23/2024, 11:34:51 PM