浅葱 碧 (仮名

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記憶の小瓶

海辺の町に、古びた小さな骨董店があった。店主は初老の男で、名前を知る者は少なかったが、人々は彼を「記憶屋」と呼んでいた。

この店には不思議な商品があった。色とりどりのガラスの小瓶に入った「記憶」だ。誰かの忘れた記憶、あるいは手放したいと願った記憶が詰められているという。

ある日、一人の若い女性が店を訪れた。

「失くした記憶を探しています」

彼女の声はどこか切なげだった。

「どんな記憶かね?」

「……わかりません。でも、何か大切なものを忘れてしまった気がするんです」

記憶屋は黙って棚を眺め、一本の青い小瓶を取り出した。

「この記憶が、君のものかもしれない」

女性は慎重に小瓶の蓋を開けた。すると、ふわりと潮の香りが広がり、彼女の瞳に遠い夏の日の光景が映し出された。

――海辺で手を繋ぐ、幼い自分と少年。
――笑顔で約束を交わす。
――「ずっと一緒にいるよ」

けれど、その少年の顔はぼやけていた。

「……この人は……?」

記憶屋は静かに答えた。

「君が忘れることを選んだ相手だよ」

女性の目に涙が滲んだ。なぜ忘れたのか、その理由は思い出せない。でも、胸の奥にぽっかりと空いた穴が、今、満たされていくのを感じた。

「思い出したい」

彼女がそう言うと、記憶屋は微笑んだ。

「ならば、この小瓶を持って行きなさい。記憶というものは、時間とともにゆっくりと輪郭を取り戻すものだから」

女性は青い小瓶を大切に抱え、店を後にした。彼女の胸には確かに何かが戻ってきていた。まだ輪郭は曖昧でも、そこには温かな感情があった。

記憶屋はそっと店の奥に戻り、棚の隅にあるもう一つの小瓶を手に取った。それは、彼女の記憶からこぼれ落ちた、もう一人の少年の想いが詰まった小瓶だった。

「やがて、君も思い出すだろう」

そう呟きながら、彼は小瓶を静かに棚に戻した。

3/25/2025, 10:16:04 AM