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お題『君に会いたくて』

 最終の新幹線。七海は腕時計を見て小さく頷いた。
 予定よりも早い帰宅。本当は、今日は出張最終日のはずだった。任務は前倒しで片付いた。合理的判断――そう言い聞かせながら、胸の内では別の答えがはっきりしていた。
(……猪野くんに会いたい。早く声が聞きたい)
 胸の奥にぽっかり空いた隙間が、彼を求めていた。七海は自嘲気味に微笑む。
 エレベーターを降りて玄関のドアに鍵を差し込む。その一瞬さえ、もどかしい。
「ただいま戻りました」
 扉の向こうから、ばたばたと足音。
「え、七海サン!?」
 駆け寄ってきた猪野は驚きと喜びが入り混じった顔で立ち止まり、それから一歩もためらわず七海を抱きしめた。
「聞いてないんですけど!」
「申し訳ありません。連絡を入れる余裕がなくて」
「あ、謝らないでください。びっくりしただけっすから。……でも、どうして?」
 抱きしめられたまま、七海は少しだけ言葉を選び、それから静かに告げる。
「……君に、会いたくなったんです」
 猪野の腕に力がこもり、七海のスーツに顔を埋める。
「ずるい! そんなの、嬉しいに決まってるじゃないっすか」
「ふふ。そう言っていただけると、私も救われます」
 七海が背中を撫でると、猪野はゆっくり顔を上げ照れたように笑った。
「俺も会いたかった。七海サンがいないと、家、静かすぎて」
「それは……申し訳ありません」
「そこも謝らなくていいですって」
 額を寄せ合う距離で、猪野が柔らかく笑う。その瞳に映る自分を見て、七海は胸の空白がゆっくりと満たされていくのを感じた。
「俺、毎日七海サンのこと考えてましたよ。ちゃんとご飯食べてるかなとか、ちゃんと寝てるかなとか」
「それは……随分心配されていたようですね」
「恋人ですから」
 即答すると、七海の表情が少しだけ柔らいだ。
「……私もです。君がきちんと休めているか、無理をしていないか、気になって仕方ありませんでした」
「じゃあ、おあいこですね」
 猪野はそう言って、七海の手を握る。指と指が絡まり、自然と距離が縮まる。
「七海サン、寂しかった?」
「……はい。想像以上に」
「じゃあ、今日は俺がいっぱいくっついててあげます」
「ええ。君のお好きなように」
 ソファに座ると、猪野は迷いなく七海の膝に乗り腕を首に回す。
「言いましたね?」
 今度は七海の腰に手を回し、ぐっと引き寄せた。スーツ越しでも分かる体温に、七海の肩がわずかに揺れる。
「俺、七海サンがいない間ずっと我慢してたんです」
「……何を、でしょうか」
「七海サンに触れないこと」
 耳元で囁くと、七海の喉が小さく鳴った。
「電話もメッセージも、もちろん嬉しかったですけど、それじゃ足りなかった」
 そう言って、猪野は七海の顎に指をかけ、視線を合わせます。
「……俺も、会いたかった」
 七海の返事を待たず、猪野はゆっくりと唇を重ねた。逃げ場を作らない、けれど乱暴ではないキス。
「……君のそばは、不思議と安心します」
「知ってます」
 即答されて、七海は少しだけ笑った。
「好きです、七海サン」
「私もですよ、猪野くん」
 年下の恋人の腕の中で、七海は目を閉じる。
 離れていた時間が嘘のように、ぴったりと重なる体温。
 ――会えなかった分だけ今夜は長く、甘く。
 君に会いたくて帰ってきたその場所で、君に甘やかされる夜が静かに始まる。

1/19/2026, 12:46:36 PM