すゞめ

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 帰宅早々、先に帰っていた彼女が玄関で出迎えてくれたかと思えば、そのまま勢いよく体当たりを食らう。

「ええと、あの……。どうしたんです?」

 なにか言いた気にしているが、珍しくだんまりを決め込んでいた。
 ふわふわなほっぺたが潰れるほど、ぎゅうぎゅうと力いっぱい抱きついてくる。
 スン、と爽やかな香りが鼻をつき、慌てて彼女を引っぺがした。
 幸せに浸っている場合ではない。

「おおおお俺、今バッチィんでちょっと待っててくださいっ!」

   *

 慌ただしく風呂と飯をすませた現在。
 リビングの座椅子に背中を預け、ガチガチに冷えた缶ビールに手を伸ばした。

 ううん……。

 彼女は座っている俺に対して向かい合うように腰を下ろして抱きついていた。
 もはやこれは対面……ん゛ん゛ッ。

 疼きそうな下半身をごまかすために缶ビールを一気にあおる。

「あの、本当になにがあったんです?」
「別に」

 別に、という態度ではない。
 なにに対して怒っているのか拗ねているのか、皆目見当がつかなかった。
 ぷりぷりしていてかわいいのだが、こんな雰囲気のまま彼女と一夜を迎えたくはない。
 どうしたものかとカラになった感をテーブルに置いたら、彼女がするりと立ち上がった。
 冷蔵庫から缶ビールを1本手にして再び戻ってくる。

「ん」
「え?」
「いつも2、3本飲んでる」
「あ、あぁ。ありがとうございます……」

 ビールを手渡したあと、彼女は再びひっつき虫みたく、先ほどと同じ体勢でぎゅうぎゅうとしがみついた。

 普段、俺が求めても嫌がるくせに……。

 とはいえ、腕の中に彼女がいる状態で飲む酒は美味いことには違いなかった。
 悪態をつこうが、我慢を強いられようが、至福極まりないこの体位を堪能する。

 プシッとプルタブを立てたとき、彼女は特大のため息をついた。

「喋んなくてもこんなやかましいのに……」

 これまでだんまりを決め込んでいたのに、急に悪口を挿入される。

「え。あの、俺、本当に、なにかしてしまいました?」

 彼女が怒る理由の心当たりは、なくもなかった。
 かかとが擦れて今にも穴が開きそうな靴下を1足拝借したり、かわいいヘアピンが落ちていたからファイリングしたり、先月くらいに抜歯して放置した親知らずをきれいに磨いて保管したりしている。
 直近で怒られそうなことといえばそのくらいなのだが、彼女は首を横に振っただけだった。

「能面みたいな彼氏と一緒にいてなにが楽しいんだ、って言われた」
「能面……」

 意図的に感情を顔に出さないようにしていた時期は確かにあった。
 しかしそれは部活動をしていたときだけだ。
 一応、学生アルバイト程度ではあるが、サービス業で接客の経験もある。

 え。
 もしかして俺が思っている以上に、表情筋は仕事をしていないのだろうか。

「面白い表現ですけど、……もしかして、言い負かされて拗ねてたんですか?」
「はあ? んなわけ。二度と絡んでこようなんて気を起こさせない程度には言い負かした」

 おっかねえぇ……。
 かわいい顔して好戦的なんだよな。
 しばらくは危ない目に遭わないようにしっかり監視……見守っておかないと。

 なんて考えていると、彼女の腕が俺の首に回された。
 首元の柔らかな熱にゾクッと背筋が昂る。
 視線を合わせれば、彼女は不貞腐れて口元をへの字に曲げていた。

「違くて。反論はしたんだけどさ? やかましい顔してたり、でろでろの顔してるのはいちいちモブが知ることじゃないというか、知られたくないというか……」
「へえ。あなたの独占欲なんて珍しいですね」

 ふっと息が漏れたのを自覚しつつも、缶ビールを口に運ぶ。

「……余裕そうな態度も、それはそれで腹立つな?」
「たまにはいいじゃないですか」
「たまには、ねえ……」

 彼女からの独占欲なんて多ければ多いほどいいに決まっている。
 手にしていた缶をテーブルに置いたあと、彼女のシャツをたくし上げた。

「わっ!? えっ!? 今っ!?」

 対面で座って、首に腕を回されて、独占欲を打ち明けられ、首元で喋られる。
 よく我慢したと、褒め称えたいくらいだ。
 邪魔になりそうな眼鏡をさっさと外し、テーブルの上に置く。

「逆に今以外のタイミングがあります?」
 
 小さく期待に震えた柔らかな首筋に、はむっと唇を這わせたのだった。

   *

 翌朝、放置された缶ビールはぬるくなって炭酸が抜けた。

「飲み残しは寝る前にちゃんと捨ててっ!」
「すみません。かわいいのがひっついてたのですっかり忘れてました」
「はあ!? 私のせいにしないでっ!」

 すっかりいつもの調子に戻った彼女は、上機嫌にぷりぷりきゃんきゃんと喚き立てていた。


『ぬるい炭酸と無口な君』

8/3/2025, 11:57:59 PM