sairo

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――あの子は特別な存在だから。

そう言って、誰もがお屋敷に住む彼女のことを敬った。
神様に愛された子。だから屋敷は彼女を受け入れている。
確かにこの村の中で一番広い屋敷に、彼女以外の人の姿を見たことはない。彼女も祭りの時に神楽を舞う以外の時に、屋敷の外に出てくることはない。

――屋敷に一人きりで、寂しくないの?

一度だけそう尋ねたことがあった。
いつのことなのか覚えてはいない。屋敷から出てこない彼女と会えるはずもなく、もしかしたらそれはただの夢だったのかもしれない。
脳裏に長い髪を風になびかせる彼女の姿が浮かぶ。現実でなかったとしても、自分の問いかけに彼女は何と答えてくれたのだろうか。


「また変なことを考えているな」

不意に足元の影法師が濃さを増した。
ぐにゃりと形を歪め、影の縁を掴むように影から黒い指が這い出てくる。指、手、腕と、人の形を取りながら影の中から出ていき、見ている前でそれは黒衣に身を包んだ人の姿へと変わった。
感情の読めない目をして笑う彼を一瞥し、足を速める。彼の姿は自分以外には見えないというが、態々足を止めてまで彼と話す気にはならなかった。

「あれは特別だ。関わろうとするな」
「特別、ねぇ……神様に愛されているから?」

肩を竦め、皆の言う特別の意味を口にする。言葉にしても、やはりしっくりとはこなかった。
愛されているのに、何故一人になるのだろうか。それとも彼女を愛する神とは、神社に祀られている神とは違うのだろうか。
その神は、あの屋敷にいるのだろうか。

「あの執着をAmor《愛》と呼べるならば、あれは確かに愛されてはいるのだろう」
「執着……」

くつり、と喉を鳴らす音に、隣を歩く彼の横顔を見上げる。表情こそは笑っているものの、やはりその目からは何も読み取れない。

「あれが屋敷にあるからこそ、この地の平穏は保たれている。そういう意味での特別だ」

その言葉に、思わず顔を顰めた。愛されていると聞こえのよい言葉は、その実神の贄という犠牲の意味を持っていること。それを察して、周りに対する嫌悪感が込み上げる。

「相変わらず聡い娘だ。理解したなら、これ以上あれに心を傾けようとするな」

黒にも見える、深い青の目に見据えられ、小さく頷いて顔を逸らす。
彼の警告はただの脅しではない。彼女に関わることで、よくないことが起こるのだろう。

「翼を捥がれ、相手の望みのままに着飾り踊り続けるなど嫌だろう?」
「絶対に嫌」

彼の言葉に幼い頃を思い出し、眉間に皺が寄る。
両親の言いつけで神楽舞を舞っていた時。窮屈な巫女装束も、単調な音楽での踊りも好きにはなれなかった。
両親の言葉は絶対で、逆らうという考えすらなかった苦痛の日々。ようやく解放された今、あの頃に戻るなど考えたくもなかった。
踊るのならば、好きな服を着て自由に踊っていたい。誰かに強制させられるならば、いっそ二度と踊れなくなってもいいと思うほどだ。

「お前はそれでいい」

頭を撫でられて、気恥ずかしさに俯いた。
いつまで経っても小さな子供扱いをされることは不満でしかないが、何度言っても彼は変わらない。
溜息を飲み込んで駆け出した。後ろで笑う声を聞きながら、こういう所が子供扱いされる原因なのだろうなと密かに落ち込んだ。





神楽殿で舞う彼女を、ただ見つめていた。
自分と彼女以外に誰の姿も見えない。彼女の手に握られた神楽鈴が澄んだ音色を響かせる意外に、何の音も聞こえない。
気取られぬよう彼女の舞う姿を見続けながら、内心で舌打ちをする。
いつここに来たのか、まったく記憶になかった。
ここは現実の世界ではない。しかし微かに漂う沈香の香りや、時折吹く風の冷たさが、これはただの夢ではないことを告げていた。

――あれに関わるな。心を砕くな。

彼の警告を思い出す。
遅すぎると八つ当たり気味に毒づきながら、どうすれば戻れるのか思考を巡らせた。
今ここには彼女と自分だけしかいない。少しでも動けば、彼女に気づかれてしまうのだろう。
けれど行動を起こすのならば、彼女が舞を終えるまでだ。あまり猶予がないことに焦りが生じ、冷静に考えることが難しい。
現実に戻るため、どんな行動をすればいいのか。
どこにあるのか分からない出口を探すのは危険すぎる。彼女を説得することも不可能だ。
彼女に捕まる、あるいは言葉を交わした時点で、おそらくは二度と戻れない。
関わるなとは、つまりそういうことなのだろう。
いくつか浮かぶ選択肢はすべてなくなった。最初からなかったと言ってもいい。
仕方がないと、息を吐き目を閉じる。神楽鈴の音が止まりこちらに近づく足音を聞きながら、自分の中の彼の存在を強く意識する。
幼い頃に彼から教わったこと。彼に助けを求めるこの方法は正直嫌だったが、それ以外に方法を思いつかない。
彼に頼り切ってばかりの自分を情けなく感じていると、不意に温かな何かが体に触れた。
彼女に抱きしめられている。耳元で囁く声に理解した。

「あの方が、貴女を私の側に置くことを許してくださったの」

熱に浮かされた甘い声音に、体が震えそうになるのを必死に堪える。
反応してはいけない。声を出さぬよう唇を噛み締め、彼の気配だけを手繰り寄せる。

「私の特別。一人は寂しくないのかと、心を砕いてくれた優しい子。貴女だけが私をただの人にしてくれた……貴女がいれば、きっと私は寂しくない」

頬を包まれ、目尻をなぞられる。微かに瞼が震え、触れられる部分から抵抗する意思が剥がれ落ちていく。

「さあ、目を開けて。私の目を見て、受け入れてちょうだい」

ふわりと沈香の香りが漂う。厳かでありながら、繋ぎ止める鎖のような重さをもった匂いが体の中に入り込もうとする。
これ以上は耐えられない。瞼から力が抜けて、ゆっくりと開いていく。

「そこまでだ」

目が開く寸前。視界を塞がれ、体を強く後ろに引かれた。
彼女とは違う冷たい腕に抱き込まれ、けれど安堵に息を吐く。見えないながら背後の彼に凭れれば、褒めるように頭を撫でられた。

「異国の神め……っ」

昏く澱んだ彼女の声がした。先ほどの甘さは欠片も消え、伝わるのは激しい怒りと憎しみだけ。

「あの方が治めるこの地より、疾く出ていけ。貴様の存在は、その子に死しか齎さぬ。あの方が与えてくださる永遠を否定しようとするな」
「愚かだな。それが理だ。Mors《死》はすべてに等しく与えられるもの。誰もそれを否定できない」

ぎり、と歯を食いしばる音が聞こえた。
動く気配はない。けれども変わらず、沈香の香りが纏わりつく感覚が消えない。

「――行かないで」

か細い声音。沈香に引かれるように、勝手に手が持ち上がる。

「私といれば、永遠が与えられるわ。頷いてくれたなら、貴女からご両親を奪った神から解放して上げられる」

意思とは無関係に動く体を、彼は強く抱き竦めた。持ち上がる手を取られ、手の甲に不思議な熱が触れる。
沈香を振り払うように、首を振った。僅かに自由を取り戻した体を反転させ、彼の胸にしがみつく。
深く息を吸い込めば、沈香ではなく名も知らない花の香りが鼻腔をくすぐった。

「この子に、Aeternitas《永遠》は必要ない。それはVita《命》ではないからな」

どこか嘲りを乗せた言葉。
その刹那、ぐにゃりと地面が歪む感覚がした。
平衡感覚を失い、倒れそうになる体を抱き上げられる。背後で聞こえる彼女の声が風と混じり、ただの雑音に変わっていく。
揺れる感覚。歩いているのか、その感覚は一定だ。
もう彼女の気配も、沈香の香りも感じない。
小さく息を吐いて、そっと目を開けた。

「ありがとう」

降ろされて、視線を逸らしながら礼を言う。

「気をつけろ。あれはこの地にいる限り、諦めることはない」

思わず眉を顰めた。
このままここで暮らすことに執着はないが、出て行くにしてもあてはない。
何より周囲が黙っていないのだろうと想像できて、気が重くなるのを感じた。

「あれらの相手を素直にする必要はないだろう。必要なものを持って出れば、それだけで済む」
「簡単に言うけどねぇ……」

溜息を吐きながらも、頭は出て行くことを考え始めている。必要なものや、衣食住の確保などを次々と段取りを決めて行く。
折角ならば海の近くに行ってみようか。海を見ながら、彼の話を聞くのも楽しそうだ。
いつの間にか影の中に住み着いている彼のことを、自分はよく知らない。聞いても今までははぐらかされることが多かったが、これからは聞けば教えてくれる予感がしていた。
周囲を見回す。
青白い月が浮かぶ空はどこか恐ろしい。けれど何より落ち着く気がして、月明かりを浴びながらくるりと回った。
どこだろうと自分は踊れる。決められたままを舞う彼女とは違う。
鳥籠の中で、永遠を与えられている彼女。
鳥籠から出て、刹那を生きる自分。
正反対だなと思う。あのまま手をとっても、結局は一緒にいることはできなかっただろう。

「あれのことを考えるな。寄ってくるぞ」
「じゃあ、一緒に踊ってよ。あの子のことも、未来の不安も忘れさせるくらいのエスコートをしてちょうだい」

手を差し出せば、彼は呆れた目をしながら笑う。
手を取り、恭しく口付けて腰を抱かれる。そのまま彼に合わせて、ステップを踏んだ。
音楽など必要ない。スポットライト代わりの月の下、彼と共に自由に踊る。

「思ったより上手ね」
「当たり前だ。誰がお前に踊り方を教えたと思っている」
「誰だっけ?忘れちゃった」

笑いながら、彼に身を任せる。
思ったよりも不安はなかった。彼が示す道すべてが正しい訳ではないけれど、それを判断できるなら、どこに行こうと大丈夫だ。
ゆったりとワルツを踊りながら、彼の目を見る。不思議な煌めきを放つ夜の色をした瞳。その目に映る自分は笑っている。

「海に行きたいな。できることなら、あなたの故郷に行ってみたい」

戯れに願い事を口にすれば、返事の代わりに優しい微笑みを浮かべてくれた。



20260323 『特別な存在』

3/24/2026, 6:06:00 PM