『記憶のランタン』
今日も仕事が始まる。
私は白衣に袖を通し、診察椅子に腰を下ろした。
白に統一された診療室に入ってきたのは、
二十代の女性。痩せ細った身体、目の下には濃い隈、
手首にうっすらと浮かぶ自傷の痕。
彼女は身内から暴行を受けたのだという。
あの日の記憶が蘇るたびに、
パニックに襲われ、眠れないのだと。
話している最中にも、彼女の呼吸はだんだんと浅く、
速くなっていく。過呼吸を起こしかけている彼女の
不安を鎮めるため、私は無理に思い出さなくてもいいと、努めて穏やかに語りかけた。
ここを訪れる者たちは、みな傷を抱えた者たちだ。
目には見えない、心の内側に深く刻みつけられた傷を――。
戦場の記憶から逃れられず、家族には離縁を
言い渡され、家にも社会にも居場所を失った元兵士。
親からの「躾」によって歪んだ価値観を刷り込まれ、抑圧された欲望を解放するため他者を傷つけ、
いまは鉄柵の向こうにいる者。
老いてもなお、子ども時代に植え付けられた
トラウマの中を歩き続けている者。
認知療法、曝露療法、あらゆる薬物治療――何を試しても、彼らの症状が改善されることはなかった。
「……わたし、もう治らないのでしょうか。
前みたいに、普通に生きられないんですか」
私の言葉から一縷の望みを見出そうとする彼女の
揺れる瞳を見つめながら、私はある提案をした。
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夜空に浮かぶ、無数の光。
今宵は記憶の灯火祭り。
ランタンに込められるものは、
弔いでも祈りでもない。
人々の記憶――それも、手放したい負の記憶だ。
光に魅了されるように立ち尽くしていると、
背後から声をかけられた。
私の患者である、あの女性だ。
「先生、わたし、ここに来てよかったです。胸のつかえが取れたというか……なんだかスッキリしました」
彼女は診察室で見せた陰りを脱ぎ捨て、
晴れやかな表情を浮かべていた。
彼女の背が人混みに紛れてゆくのを
見送りながら、私は思う。
彼女が回復してよかった、と。そして同時に――
ひどく、もったいないことをした、とも。
過去の傷や痛みこそが、
人を美しくするというのに。
その時だ。人々に紛れて光を見つめる
とある人物に、私の目は釘付けになった。
見間違えるはずがない。
私の恋人が、ここに来ていた。
気づかれぬよう、ゆっくりと近づく。
そして背中に腕を回した瞬間、
彼の身体がびくりと震え、強ばった。
驚かせてしまっただろうか。
「ここにいたんだ」
感極まって思わず声が上擦ってしまう。
けれども仕方がない。
彼はどんな存在よりも忘れがたい、
ただひとつの、私だけの光なのだから。
夜空に浮かぶ無数の光の下で、
運命の再会を果たす二人。
こんなにも美しい光景を、最愛の人と共に
見られるなんて。私はなんて果報者なのだろう。
そう心の中で噛み締めながら、
私は腕の中の恋人をきつく、きつく抱きしめた。
11/18/2025, 10:00:02 PM