アシロ

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 私は、自分には到底出来ない、成すことの出来ないものを極めた人々に、憧憬を抱きがちだ。だってその人達は、私には見ることの出来ない景色を見ている。世界の見え方そのものが違うのだと、そう思うから。
 私は幼い頃からスポーツが本当に苦手で。走るのも、投げるのも、跳ぶのも、泳ぐのも、誇張なく全てが苦手で、そのせいで運動会や体育祭といった皆が楽しみにしている一大行事が心の底から嫌いだったし、小学生の時などは、「寝なければ明日は来ない」と信じて前日の夜に無駄な悪足掻きなどもしていたほどだ。唯一人並みに出来るものを挙げるとするならば、多分候補は縄跳びぐらいだと思う。
 でもそんなスポーツ嫌いの私は何故か、スポーツ観戦はとても好きだった。オリンピックやW杯、世界陸上、世界水泳、バレーボール、フィギュアスケートの大会など。自分には出来ないからこそ、それらスポーツというジャンルにおいて輝いている選手達を見ることが好きで、沢山の感動を与えてもらってきた。
 その中でも、私が特に惹かれ、憧れた競技が二つある。それは棒高跳びと、男子の100m走だ。
 棒高跳びという種目を世界陸上の観戦で初めて知った時。それを初めてこの目で見た時。心のワクワクが止まらなかった。棒を軸にして真っ直ぐ上へ跳び、体がバーを超え、そこからマットへと落下していく。その過程全てにロマンを感じずには居られなかった。上がって、超えて、落ちる。その全ての過程を選手は自分の目で見て、肌で感じて、バーを無事に超えたかそれとも何処かが触れてしまい落としてしまったか、きっとそこまで彼ら・彼女らには見えていて、それを見届けた末にマットに落下するまでの秒数の間で一体何を思うのか。それを自分の身に置き換えて考えるだけで凄く楽しくて、棒高跳びという競技に魅力しか感じなくて。実際に競技が出来ない私はそうやって頭の中で妄想をすることは出来ても、特に落下の瞬間······空から落ちるような、空気を切り裂きながら重力に従い風を感じながらマットの感触を感じるその時までのたった数秒の時間は、実際に己の身で体験しなければ一生わからない感覚なのだろうと思うのだ。いくら空想しても、それを体験したことのない私にはわからない景色。それを私は、大層羨ましく感じ、ロマンに焦がれるのだ。
 もう一つの競技、男子の100m走。かつて、私の心臓を捕らえて離さないヒーローがこの種目の選手として活躍していた。その人の名は、ウサイン・ボルト。200m走やリレーなどにも参加していた彼はその競技人生の中で、幾つもの世界新記録を樹立しメダルもたくさん獲得した。とても格好良かった。絶対的王者だった。彼は私にとっての英雄──ヒーローだった。私は50m走でさえ走るのに10秒近くの時間を要するというのに、彼はそれよりも短い時間で倍の100mという距離を風のように駆け抜けていくのだ。それは絶対に、私には一生体験出来ることなどない世界だ。そんな世界で、彼は走っていた。彼には世界が、景色が、どう見えていたのだろうか。······私には、想像することさえ許されない気がした。彼が世界新記録を出す度に自分の事のように喜び、彼こそが“生きる伝説”なのだと確信した。そんな彼と同じ時代に生まれてこれたことを、神に感謝した。彼は何度も何度も、テレビで観戦している私を歴史的瞬間に立ち会わせてくれた。せめて東京オリンピックまで現役選手として活躍出来ていたなら、私は必死の思いで観戦チケットを確保しにいっていたに違いない。彼の走りを実際にこの目で見ることが出来なかったことだけ、ほんの少し悔いが残ってはいるものの、たくさんの感動を与えてくれたウサイン・ボルトという選手を私は今でも敬愛し、尊敬している。
 私は、“何かを極める”ということが出来ない。とても不向きで、何事においても中途半端でしかない人間だ。そんな私もいつか何かを極め、誇れることを見つけて、見知らぬだれかに“あの人と同じ景色を見てみたい”と思ってもらえるような存在になれたなら······きっと、それほどまでに幸福なことなどないのではないかと思う。今はまだ、そんな景色など到底、視線の先に見えはしないのだけれど。

1/13/2025, 3:32:18 PM