‪スべてはキみのセイ

Open App

【 銀 雪 憐 花 】


むかし、まだ人が死を恐れる前に、
白銀の雪原にひとつの花が咲いていたという。
銀雪憐花。
雪より白く、月より淡く、
近づく者の息を静める、不思議な花だ。
この花には、ひとつの言い伝えがあった。
死人の傍らに活ければ、花は萎れ、
代わりにその者は一日だけ、生前の姿に戻る。
声も、温もりも、癖も、
死が奪ったすべてを取り戻す。
だが、翌朝には
身体も想いも、雪解け水のように溶け、
死体すら残さず、跡形もなく消えてしまう。
奇跡ではない。
それは、別れをもう一度与えるための花だった。




ある法師が、長い修行の帰り道、
吹雪の山中で一際美しい花を見つけた。
手を伸ばし、摘み取った瞬間、
花は音もなく萎れてしまった。
不思議に思った法師は、
顔を守っていた笠を外し、
根元の土ごと、雪ごと、花をそっと包み込んだ。
すると花は萎れず、
雪の中で咲いていた時のまま、静かに息づいていた。
「これは、妻への土産にしよう」
そう思い、法師は家路を急いだ。
だが、家に戻ったとき、
妻はすでに、ひとり静かに息を引き取っていた。
法師は嘆き、泣き、
何も出来ぬまま夜を迎えた。
ふと、笠に包んだ花を思い出し、
妻の枕元に、そっと添えた。
願いはなかった。
奇跡を求めたわけでもない。
ただ、独りにしたくなかった。
夜が更けるころ、
銀雪憐花は静かに萎れ始めた。
その代わりに、
妻の頬に、血の色が戻った。
閉じていた瞳が開き、
懐かしい声が、法師の名を呼んだ。
二人は、一日を共に過ごした。
語り合い、笑い、
何でもない食事を分け合い、
いつも通りの、何でもない一日。
だからこそ、
別れが迫っていることを
二人とも口にしなかった。
夜、妻は隣で眠りにつき、
法師もまた、その温もりに身を委ねた。
だが、夜明け前。
急な冷えに、法師は目を覚ました。
隣には、もう誰もいなかった。
布団は濡れ、
そこには、雪解け水だけが残っていた。
妻の姿も、
死の痕も、
何ひとつ、残ってはいなかった。






「……それで、その人はどうなったの?」
物語を聞いていた子どもが、布団の中で尋ねる。
「また、会えなかったの?」
親は少しだけ考えてから、答える。
「二度と、その花を探さなかったそうだ」
「どうして?」
「また一日を望んでしまわないように、だろうね」
子どもは黙り込む。
「ねえ……生き返った意味、あったのかな」
親は、灯りを落としながら言った。
「意味があったかどうかは、
残された人だけが決めることだよ」



その後、法師は人の死に立ち会うたび、
必ず一晩だけ、灯を消さずに祈ったという。
別れを惜しみ、
しかし、引き留めぬために。
銀雪憐花は、今もどこかの雪原で咲いていると噂される。
一瞬だけ、
あまりにも美しく輝き、
そして、何も残さず消えるものの象徴として。
それは、
白銀の雪の中に咲く、
憐れみの花の名である。

1/7/2026, 3:29:17 PM