撫子

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「あ、あの車」
 バイト先を出て大通りに出た瞬間、先ほど一緒に上がった先輩が急に立ち止まったので、私もなんとなく振り返る。
 この時の私は、この人こんなに大きな声も出せたのか、と無感動に思ったくらいだった。いつも覇気がないと怒られているのは、なんだったのだろう。そして先輩の指差す先の車を見ても、なんの変哲もない白の軽自動車の、一体どこに驚いたのだろう、と呆れたくらいだった。
「あの車、お好きなんですか?」
 どうでもいいし、早く帰りたかったが、訊いておくのが礼儀だと思ったので、一応尋ねる。
 すると、こちらを向いた先輩は、なぜか途方に暮れた迷子みたいな瞳をしていた。
「好き……じゃない。けど、ナンバーがxxxxだった」
 はあ? と声に出てしまったと思う。何か問題ありますか? と面倒くささもあらわに問いかけた私に、先輩は今度は記憶喪失の人のように空っぽの表情を浮かべている。
「……そうか、ごめん、そうだった。なんでもないから忘れて、すまないすまない」
 この人は、話を終わらせたくなると、決まってすまないを二度繰り返す癖がある。私もいい加減帰りたいので、短く別れを告げてその場をあとにした。

 そんなことが、あったなあ。
 たしか、あれちょうど一年前くらいだ。
 寒い。さむい。感覚が遠のく。
 身体は冷えているのに、頭だけは妙な走馬灯を再生している。
 あの日の先輩の言葉は、結局なんだったんだろう。先輩はあの直後フラッと辞めてしまったから、もう話すことは叶わないけれど。
 私に追突してきた白の軽のナンバー、xxxxでしたよって、教えてやりたいのに、なあ。

(一年後)

5/8/2023, 3:21:44 PM