1年半付き合った彼女に「半年前から恋愛感情がなくなった」と別れを告げられたのは1週間前のことだった。
同棲しているため、別れたから即他人というわけにはいかず、自分の社宅が決まるまでの間はシェアハウスの友人だと思って生活している。
別れても互いに同じ趣味であるシーシャを楽しめる人生の良き友人になれるほどには気が合っていたことが、救いであり少し虚しい。
半年ほど前からレスになった。
このまま結婚するものだと思っていたため、気にも留めていなかった自分が恨めしい。
彼女は日々楽しそうに仕事に向かっていた。
自分も常連であるシーシャ屋のバイトをしている彼女もまた、元はこの店の常連だった。
誰もが彼女を一目見て「綺麗だけどとっつきにくそう」だと答えるであろう、ミステリアスかつ気の強そうなアイラインが特徴的な長身の女性。
しかし話しかけてみると案外柔らかく、親しくなるにつれて天真爛漫に振る舞う彼女のギャップに店の常連やスタッフも自分と同じくやられていたと思う。
同じゲーム好きということで意気投合して、付き合えたことは奇跡に近かった。
ここ数ヶ月の彼女はスタッフとしても慣れてきて、常連達やスタッフともより親しくなったことで毎日鼻歌混じりにバイトをしていたし、楽しそうに常連やスタッフと連絡を取り合っていて安心していた矢先の別れだった。
「今日はどうだった?」
別れてからも、日課の会話は変わらない。
自分が店に行かなかった今日のシーシャ屋の様子を帰宅して薄明かりで夕食を食べる彼女に問う。
「タニとかカナエとか浩介とか来たよ。馬鹿みたいな会話で今日も笑ったー、タニもネットミームめっちゃdmしてくるし、ジョーさんも寂しいおじさんだから今もdmうるさい。てかジョーさん相変わらず体調悪そうだから病院行けって送ろーっと」
「たしかに、ジョーさん最近ずっと咳き込んでるよね。めっちゃやつれてるし、疲れてんのかな。てか、タニ来たなら僕も行けばよかった」
別れる前と何ら変わらない談笑の隅に、少しだけ違和感を覚えた。
ここ3ヶ月ほど、シーシャ屋のスタッフであるジョーさんと彼女はかなり親しい様子だった。
ジョーさんは天然そうで、とても優しい人のため、彼女と仲良くしてくれている様子をみて1人ほっこりしていた。
2人の人柄を考えるに、浮気など全く疑ってもなかったし、今も同じである。
しかし、特定の親しい人物をほとんど作ろうとしない彼女がかなりジョーさんに対して心を開いているとは感じていた。
それはジョーさんも同じで、彼も必要以上に他人に干渉しないスタイルを貫いていたが、よほど職場の後輩である彼女が気に入ったのか、毎日会話をした上で毎日dmを送っているようだった。
そこで、ひとつの仮説が自分の中に浮かび上がった。
「りんちゃん、最近ジョーさんと仲良いね。2人ともそんなに仲良くなるなんて珍しいじゃん」
「そうだねー、ジョーさんも私もマジで他人に興味ないから逆に何で仲良くなったのか不思議」
本当に不思議そうに、少し嬉しそうに彼女が答える。
そこに嘘は感じられなかった。
であるとするならば、次第に自分の中で仮説が確信へと輪郭を浮かび上がらせる。
少し躊躇ったが、この朧げな考えを彼女にぶつけてみることにした。
「ジョーさん、もしかして君に好意があったりとかするんじゃない…?あの人が毎日dmしたりとかしないじゃん普通」
彼女は少し間を置いて、静かに口を開いた。
「わからない。ジョーさんがこんなに関わってくるのって珍しいな、とは思うけど。面白いから絡み返してるけどさ」
後半は可笑しそうに答える彼女をしげしげと見つめたが、やはり嘘はなさそうだった。
明日常連のタニにネタとしてこの仮説を提唱してみるか、と自室に戻った。
内心少し複雑だが、あのジョーさんが…?という面白いネタを1人で抱えておくわけにはいかない。
翌日、いつもの店で煙を燻らせていると、仕事終わりのタニが暖簾をくぐって入ってきた。
「お、お疲れ様です」
大きな体躯が冬眠前のクマを彷彿とさせるタニが自分の横に腰掛ける。
「お疲れ。ねぇ、聞いてほしいネタがあるんだけどさ」
自分達が別れるという話と、ジョーさんの様子のおかしさをなるべく面白く、ネタとして伝えた。
「うん、はい」とか「うぇー!?」とかいいリアクションをタニから引き出せて、満足した。
面白いネタが好きな店だから、こうもいいリアクションをもらえると少し嬉しい。
ひとしきり話し終えた後で、タニが言いづらそうに口を開いた。
「いや…それ僕も思ってたんすよ、実は。最近ジョーさん様子おかしいよなって。やけにりんさんと親しげだし、りんさんがいる時テンション高くて珍しいふざけ方するしなって思ってたっす」
「やっぱタニもそう思う?いやー、仮説が確信に変わりつつあるねーこれは」
やはりか、という野次馬的な面白さが湧き上がってニヤけた。
僕としては彼女のこともジョーさんのことも好きだからこそ、どちらにも幸せになってほしいという気持ちが、複雑な心境に勝った。
彼女にこのことを伝えてみるかと意気揚々と帰路に着いた。
自宅に帰ると、彼女はアイスを頬張っていた。
どうやら僕の分も買ってきてくれているらしく、彼女は無言で冷蔵庫のある方向を指差した。
知覚過敏で歯が痛むのだろう、頬を抑えながら渋い顔で僕に声をかけた。
「おかえりー、どうだった?誰か来た?」
「いろいろ来たよ。てかさ、タニと話したんだけど、やっぱ絶対ジョーさん気あるよ」
彼女はすぐに昨日の件だと理解したらしく、目線をこちらに向けた。
「えー、タニも同じ見解なの?私はそんなことないと思うけど」
「うん、タニもほぼ確信だってさ」
ニヤニヤと答えた自分と同じく、彼女も面白がると思ったが、彼女の表情は動かなかった。
彼女は「ふうん」とだけ返し、またアイスを食べ始めた。
昨日とはまた別の些細な違和感に、僕は首を傾げた。
風呂から上がると、彼女はまだソファの上にいた。
珍しくゲームもせず、ただ彼女の好きなアーティストの音楽を流している。
「お風呂上がったよ。りんちゃん、入らないの?」
もう夜も更けてきたため、彼女に風呂へ入るよう促しつつ、彼女へと近づいた。
彼女の頬は濡れていた。
「え、どうしたの?何か嫌なことあった?」
彼女の涙のわけがわからず、狼狽える僕に、静かに彼女が口を開いた。
まず、ジョーさんはただ彼女を可愛がってくれているだけだということ。
ジョーさんからではなく、少し前から彼女がジョーさんへ片思いをしていたこと。
そして、その恋心については、誰にも、ジョーさん本人へも打ち明ける気はなかったということ。
また、ただ体調を崩していると思っていたジョーさんには難病指定の病気があり、彼女には打ち明けていたこと。
ぽつりぽつりと言葉を紡いだ彼女は、最後に「嘘はつけなかった、みんなのこと好きだから誰にも傷ついて欲しくないんだ」と呟き、ごめんね、と続けた。
謝罪は、僕に対しての申し訳なさからだろう。
やはり、ジョーさんが全く何の気無しに彼女にここまで気を許しているわけではないのでは?という仮説がまた浮上したところで、複雑だった心境がよりクリアになった気がした。
さて、僕が彼女の家に引っ越す時にジョーさんに引っ越しの手伝いを依頼したからには、別れたから社宅に越すための手伝いも依頼しようか。
少しずつ、優しく歩み寄り始めた2人の良き友人として。
9/27 涙の理由
9/27/2025, 6:14:41 PM