すゞめ

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『モンシロチョウ』

 ……遅いな?

 彼女がジョギングのために家を出て3時間余りが経過した。
 フルマラソンにでも出場するつもりなのだろうかと、勘ぐりたくなるレベルで帰ってこない。
 ローテーブルに並べた朝食はとっくに冷めきっていた。
 皿にかけたラップには、水滴が溜まっている。

 痺れを切らして連絡してみれば、ある意味彼女らしい、のんびりとした答えが返ってきた。

『ハルジオンにモンシロチョウがいてね? 見てた』
「は?」

 走っているはずなのに、彼女の発声にブレがないのはさすがである。

『モンキチョウもシジミチョウもいたよ?』
「それ、なんの念押しですか?」
『え? 好きかなって』
「別に、昆虫はあんまり……」
『そうなの?』

 特にチョウは苦手な部類だ。
 あの大きな翅でヒラヒラと不安定に描かれた軌道は、見ていて不愉快に胸がざわつくから、生理的に受けつけない。
 蝶よ花よとはよく言ったものだ。
 チョウのたどたどしく空を舞う様は、半ば強制的に掻き立てられる庇護欲をうまく言い表している。

『セミとバッタは好きなクセに』
「あ、あれは、あなたの観察眼が面白くてつい夢中になっただけで、どちらもそれほどではありません」

 ああ言えばこう返してくる様子から、彼女は全く悪びれていない。

「全く……」

 俺はイヤホンをしている彼女にもわかるように、わざとらしくデカいため息をついた。

「いい子だから、そろそろ帰ってきてください」
『バカにしてる?』
「いえ、そろそろ俺の腹の虫が限界を迎えているだけです」
『……先に食べてていいのに?』
「なんでそんなひどいこと言うんですか。俺のことを捨てるつもりですか」
『なんでそうなる?』

 今日は彼女との貴重な休日である。
 休みがかぶることがわかったときから、この日は朝から彼女のモグモグタイムに同席すると決めていた。
 ただ座って見ているだけだと、恥ずかしがった彼女から強制退場させられてしまう。
 だから、俺は彼女と朝食を取るために、今か今かと帰りを待っているのだ。

「あ、ちゃんと花粉は払ってきてくださいね? あと、おててもキレイキレイしないとダメですよ?」
『今のは絶対バカにしただろっ!』

 このくらいの仕返しは許されて然るべきだろう。
 再度、問いつめる彼女の言葉には笑って流してやった。

「風呂はどうします?」
『れーじくんが餓死しちゃうから先にご飯にする』

 帰宅後はほぼ確定で風呂に直行するというのに、珍しい。
 彼女なりに気遣ってくれたらしく、俺の機嫌は上昇気流にぶっ飛んだ。

「わかりました。食い終わったら入れるようにしておきますね」
『シャワーだけだから別にいいよ』
「なるほど。シャンプーとトリートメントはやります。洗顔は自分でやってください」
『全部自分でやるから手を出すなっ!』
「ふむ。今回は見るのはかまわないと。やっぱりお湯は張っておきます」
『なんで一緒に入ることが前提になってるんだよっ!?』

 なにをそんな当たり前のことを、わざわざ声を荒げて聞いているんだろう?

 無駄に彼女を疲れさせることは本意ではないため、素直に質問には答えた。

「俺をぽっぽいて、モンシロチョウによそ見するからでしょう?」
『またクソだるくてくだらない自己嫌悪?』
「……」

 本当に、俺に対する遠慮がなくなってきたな?

「だって悔しいじゃないですか」
『なにが?』
「あなたの好きが、俺の苦手だなんて」
『そんなの人それぞれじゃん』
「だからこそ、ですよ?』
『うん?』
「チョウ嫌いの俺に、モンシロチョウの魅力をプレゼンしてください」

 きっと、彼女がどれだけモンシロチョウについて熱弁しようと、魅力はカケラも理解できないだろう。
 だが、彼女がモンシロチョウのどんなところに興味を惹かれているのかは知りたいと思った。

「嫌いから、まあ悪くないなって思えるくらいの説得力なら、今日の蛮行は許してあげます」
『ばんっ!? そこまで言うっ!?』
「言いたくもなりますよ。1時間で戻るかと思えば、3時間たっても帰ってこないんですから。いつからこんな不良娘になっちゃったんです?」
『ウソォ!? そんなにっ!?』
「あなたの腕にはスマートウォッチがあるはずですが、充電切れですか?」
『体感的には10分くらいだったもん』
「あなたの体内時計が正確なのは睡眠のときだけでしょう」
『そんなことないもんっ!!』

 少し嫌味ったらしい口調になってしまうと、電話口から舌打ちが聞こえた。
 逆ギレも甚だしい。

『お腹を空かせたれーじくんって、怒らせるとこんなに面倒なのか……』

 しかも、面倒という心境が先にくるか。
 それなら彼女の望む通り、面倒な俺を怒らせるとどうなるかキッチリわからせてやろうではないか。

「とにかく、ここから先の寄り道はダメですからね」
『んもーっ、わかってる!』

 本当にわかってるのか?

 つき合いきれないと言わんばかりに、一方的に電話を切られた。
 ジョギング中でなければ鬼電してやるところだったが、さすがに邪魔になるだろうから諦めて通話画面を閉じる。
 風呂の準備をしたあと、彼女とのディベートに太刀打ちするため、モンシロチョウについて検索しまくるのだった。

5/11/2026, 6:49:58 AM