お題【恋物語】
『檸檬忌』
心臓の、ちょうど裏側のあたりが痒い。
爪が届かないそこを、同級生の五月女(さおとめ)は「たぶん初恋だよ。」と笑った。私は無意識に、制服のブレザーの上から自分の胸元を強く掻きむしる。布地がザラザラと擦れる乾いた音が、ひっそりとした図書室の空気を小さく震わせた。痛いだけで、少しも痒みは引かなかった。
五月女はいつも、古い外国の文庫本をポケットに突っ込んでいるような、少し育ちすぎた植物みたいな男の子だった。大人びたローファーを履いているくせに、自転車のサドルを一番低くして、わざと膝を窮屈そうに曲げて漕ぐ。そのアンバランスさが、中等部の退屈な渡り廊下で、私の視線をどうしても惹きつけて離さなかった。
恋をした。
してしまった、と思う。
けれど、私の名前は四季(しき)だ。春夏秋冬、すべての季節を背負わされた名前のくせに、私の心は五月女という、たったひとつの季節のなかで完全に立ち往生している。
「四季、梶井基次郎の『檸檬』って読んだことある?」
放課後の図書室。窓際の西日が、五月女の白シャツを透かして、彼の鎖骨の固そうなラインを浮かび上がらせていた。
「ない。何それ、美味しいの。」
「丸善の棚にレモンを置いてくる話。主人公はね、そのレモンを、爆弾だと思い込むんだ。金色の、恐ろしい爆弾。」
「変な人。」
「だよね、変なんだ。でもね、何かを猛烈に好きになるっていうのは、心の中にそういう起爆装置を飼うことなんだと思う。」
五月女はそう言って、私に片目をつぶってみせた。その仕草の、あまりの自然さと、私に向けられたという事実の重さに、私の思考はぐにゃりと歪む。
私のなかの爆弾。
それは今、静かにカウントダウンを始めている。
彼は魅力的だ。誰に対しても等しく不親切で、それでいて、捨てられた猫を見るような目をして世界を眺めている。女子たちが彼の噂をするたび、私は自分の所有物でもない彼のことで、なぜか誇らしくなり、次の瞬間には、激しい胃もたれのような独占欲に襲われた。
彼が好き。
でも、彼の視線の先にあるのは私じゃない。
彼は本を読んでいる。文字を読んでいる。私の顔ではなく、私の背景にある夕焼けを見ている。
「ねえ、五月女。」
「ん?」
「レモンってさ、本当は爆発しないでしょ。」
「うん。ただ腐るだけ。」
「ふっ、最悪だね。」
「……だから綺麗なんじゃない。永遠に爆発を待ってる間だけ、そのレモンは世界で一番危険な果物なんだよ、たぶん。」
ちょっと気恥ずかしそうに、独り言のように彼が零した言葉は、私の胸に鋭く突き刺さった。
逆説だ、と思った。
手に入らないから美しいんじゃない。私たちは、すれ違う瞬間のその摩擦熱だけで、辛うじて生きている。触れ合ってしまえば、ただの日常という名の引力に捕まって、急速に冷めていくのだ。私たちは交わらない平行線だからこそ、どこまでも同じ景色を見つめて走っていける。
それはとても残酷で、息が止まるほど綺麗な贅沢だった。
修学旅行の班決めの時間、五月女は当然のように別のグループの女子に誘われ、曖昧に頷いていた。
ブレザーの奥の、心臓の裏側がまた猛烈に痒くなる。爪を立てても、皮膚が赤くなるだけで届かない。
声は届かない。距離は縮まらない。私たちは同じ教室にいながら、全く違う銀河に属している。
それでいい、と言い聞かせる自分と、嘘つき、と罵る自分が、頭の中で大喧嘩を繰り広げている。
下校時刻のチャイムが鳴る。
私は彼に背を向けて、一歩を踏み出した。
私たちの関係には、名前がつかない。
だからこそ、この恋は誰にも暴かれない。
私のポケットの中で、触ってもいないレモンが、今、静かに熟しきって、ずしりと不穏な重さを増した。
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『不燃』
修学旅行の京都は、どこを向いても修学旅行生だらけで、まるでお土産物の生八ッ橋の粉の中に街ごと閉じ込められたようだった。
私は、彼と同じ班にはなれなかった。
五月女の班は、クラスの目立つ女子たちが早々に包囲網を敷いて囲い込んだのだ。彼は相変わらず、低すぎるサドルの自転車を漕ぐような窮屈そうな歩き方で、金閣寺の砂利道を歩いていた。
心臓の裏側が、京都のじっとりとした湿気を吸って、いつもより粘り気のある痒みを発している。私は自分の班の女子たちの後ろを歩きながら、首筋の制服の襟を指で強く引っ張った。皮膚が擦れてヒリつく。
「四季、それ、何見てるの?」
班の友達に声をかけられて、私は慌てて視線を落とした。
「あ、いや、龍安寺の石庭。」
「渋っ。ていうか、石しかなくない?」
「そうなの。ここ、十五個の石があるんだけど、どこから見ても絶対に十四個しか見えないように作られてるんだって。」
「へえ、意地悪だね。」
友達はすぐに飽きてスマホの画面に戻った。
意地悪。本当にそうだ。
見えない一つが、そこにあると分かっているのに、決して視野には入らない。私にとっての五月女が、まさにその十五個目の石だった。同じ空間にいて、同じ空気を吸っているのに、私の網膜は彼の背中しか捉えることができない。
夕方、自由行動の時間。
烏丸通の裏路地にある、古い洋館を改装したブックカフェ。私の班の女子たちが「近くの可愛い雑貨屋に行きたい。」と言い出したので、私は「ここで本を見てる。」と嘘をついて、一人で店に残った。
静かな店内に、重い木の扉が開く音が響いた。
カラン、と乾いた鈴の音。
振り返ると、そこに五月女が立っていた。首から使い古したフィルムカメラを下げて、少し肩をすぼめている。彼もまた、班の連中を撒いてきたのだろう。
「……あ。」
五月女が私に気づいて、丸い眼鏡の奥の目を少しだけ見開いた。
「四季。奇遇だね。」
「五月女。何、ストーカー?」
「まさか。僕はただ、三島由紀夫が歩いた街の、一番暗い場所を探してただけ。」
今度は、三島由紀夫?
彼は私の隣の席に、当たり前のように腰を下ろした。
彼の制服からは、ほんのりと京都の古いお寺の、お香のような匂いがした。
「三島由紀夫の『金閣寺』、読んだ?」
「読んでない。私、金閣寺はさっき見たけど、思ったよりもピカピカはしてなかったなぁ。」
「あれはね、美しすぎるものに呪われた男が、最終的にそれを燃やす話なんだ。主人公の溝口は、吃音で、世界と上手く繋がれない。だから、絶対的な美である金閣を壊すことでしか、自分を証明できなかった。」
また、本の話。
五月女は、手元のおしぼりを細長く折り畳みながら、ぼそぼそと言った。その指先が、妙に白くて綺麗で、私は生唾を飲み込む。
「……極端な人だね。」
「うん。でも、分からないでもないよ。本当に美しいものは、手に入れるんじゃなくて、自分の手で灰にしたいって思う衝動。あるいは、絶対に手が届かない場所に、そのまま保存しておきたいっていう絶望。」
彼はそこで言葉を切り、窓の外を走る市バスの赤いテールランプを見つめた。
まただ、と思った。
彼はやっぱり、私の顔を見ていない。私の横顔を通り抜けて、三島由紀夫の、あるいは彼自身の頭の中にある「金閣」を見ている。
私のなかの、カウントダウンを続ける爆弾が、一瞬だけ熱を帯びる。
「五月女。」
「ん?」
「私なら、燃やさないよ。」
「え?」
「燃やしたら、灰が目に入って痛いじゃん。私なら、ただ遠くから見て、綺麗だねって言って、そのままお腹壊すまで生八ッ橋食べる。」
私は、ふふ、と自分から少し照れ隠しの笑い声をこぼした。彼に、私の本気の温度が伝わってしまわないように。
五月女は一瞬きょとんとした後、私の拙い笑い声に誘われるように、ふっと中学生らしい無防備な笑顔を見せた。
笑いながら、彼は手持ち無沙汰そうに、まだ産毛の残る細い指先でローファーの踵をいじっていた。世界を拒絶するような言葉のわりに、その手元はひどく心細そうに見えた。
「四季は強いね。三島よりずっと、正しいよ。」
その言葉が、嬉しくて、そして猛烈に悲しかった。
私は強くなんかない。ただ、彼を燃やす勇気も、彼に触れる覚悟もないから、冗談という名の安全弁で自分を誤魔化しているだけだ。
「あ、五月女みっけ! お前どこ行ってたんだよ!」
カフェを出てしばらく歩いた細い路地で、前方から修学旅行生の騒がしい集団がやってきた。五月女の班の男女たちだ。声が響く。五月女は「ちょっとね。」と苦笑いしながら、私から半歩、距離を置いた。
その瞬間、私たちの体が一瞬だけすれ違う。
触れ合ってはいない。けれど、彼のブレザーが私の袖をかすめたような、確かな摩擦の感覚だけが残った。
彼は集団の渦に巻き込まれ、一度も振り返ることなく、賑やかな街の光のなかへと消えていった。
私は一人、暗い路地に立ち尽くす。
私たちはやっぱり、十五個目の石を一生探し続けるだけの、不器用な迷子だ。
ホテルの部屋に戻り、ベッドに倒れ込む。
カバンの奥、修学旅行のしおりのすぐ横に放り込んでおいた、お土産に買ったわけでもないただの黄色い果物が、コロンと転がり出た。
冷たい夜気の中で、私の指先をじわりと濡らすほどに、レモンは今、ずしりと重く熟しきっていた。
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『四季』
帰りの車内は、行きとは違って、ひどく疲れ切った沈黙が支配していた。
通路を挟んで斜め前の席に座る五月女は、窓ガラスに額を押し当て、微睡むように目を閉じている。耳には白い有線のイヤホンが差し込まれていた。
ふと、車両の振動が途切れた一瞬、彼の耳元からかすかな、シャカシャカとした電子音が漏れて聞こえた。
耳を澄ます。それは、ポップスでも、彼がいつも読んでいる古い外国の小説の朗読でもなかった。
きらきらとした弦楽器の旋律。学校の音楽室で何度も聴かされた、あの執拗なほどにドラマチックなヴァイオリンの調べだ。
「……ヴィヴァルディ?」
私の唇から、思考よりも先に小さな呟きがこぼれ落ちた。
急に激しくなったヴァイオリンの変奏(バリエーション)は、凍てつく冬の厳しさか、あるいは、すべての命が芽吹く春の予感か。いずれにせよ、それは間違いなく、四つの季節を巡るあの組曲の調べだった。
五月女は動かない。眠っているのか、それとも聞こえない振りをしているだけなのか。彼の横顔からは何も読み取れなかった。
どうして彼が、あの曲を聴いているのかは分からない。ただの気まぐれかもしれないし、クラシックが好きなだけかもしれない。
けれど、私の心臓の裏側が、今度は爪を立てられたようにきゅっと窄(すぼ)まった。
彼は私を呼ばない。私の名前を口にすることもない。
ただ、彼の耳の奥で、それが、何度も、何度も、激しくリフレインしている。その事実だけで、私の胃のあたりには、熱い鉄を流し込まれたような重い目眩が押し寄せていた。
5/18/2026, 12:07:32 PM