安達 リョウ

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私の名前(知らなくていい)


「すずきさーん(仮)」

激しめにドアを開けて中に入る。
小さな部屋には灰色のテーブルと椅子ふたつ、鉄格子の嵌った窓が高い位置にひとつ。
その椅子に座っている男に、彼はツカツカと歩み寄ると、対面のもう片方の椅子に腰を下ろしふんぞり返った。
「どう。喋る気になった?」
「………」
―――これだよ。
彼がその姿勢のまま大きく溜息を吐く。

この男が民家に侵入し、窃盗で逮捕されたのは昨日の晩。
普通なら早々に観念して調書作成に移る流れなのだが、ここにしょっ引かれてから頑なに黙秘を貫いている。
犯罪歴がなく、初犯だと思われ罪自体認めさえすればそこまで重い刑になりはしないのに、なぜ黙秘する必要があるのか。

「何で黙ってんの。素直に認めて罪償った方が早いよ? 時間の無駄じゃん、俺もあんたも」
「………」
「ねーもう。名前くらい言おうよ、ね?」
正面を向いたまま微動だにしない男に、彼は机の上で頰杖をつく。
「名前も言えない何か、重要事件に絡む犯罪でも犯してんの? それとも実は整形して逃走真っ只中の犯人とか?」
「………」
「あ、わかった。なるほど、そうだそうだ」
ちょっと待ってろ、と彼が部屋を出て行く。
数分後、再び現れた彼の掌には弁当がひとつ乗っけられていた。
「腹減ったよな、もう昼前だし。これ食って腹ごなしして、全部洗いざらい吐いて帰ろう。な?」
彼が男の目の前に、丁寧に弁当を置いてやる。
「………」
………。見もしねえ。
見た目若そうだし、空腹には勝てないと思ったんだが。
―――彼はもう一度溜息をつくと、また椅子にふんぞり返った。
「俺とあんた、どっちが先に折れるか勝負って? これでも一応警察官だからね、持久戦なら負けないよー。とりあえず名前教えてほしいな、あんたって呼ぶの気が引けるし」
どう見てもそう思ってないだろという突っ込みはさておき、彼も腹をくくり男を正面から見据える。

「………それにしても珍しいな、今の時代身元の割れるもん何ひとつ持ってないなんて。免許証もスマホも無しで外出?」
仮に窃盗を決め込んでたとしても、逆に物騒じゃね?
「しかも身内からの捜索願い、問い合わせもない。仕事は………無職? こうして捕まって、一切どこにも連絡しないとか有り得るの?」

「ああ」
「え?」

いきなり口を開いたかと思えば肯定されて、彼が驚きに口を開ける。

「―――こいつで間違いありません」

その瞬間。
彼は入ってきた数人の警官に両腕を拘束され、問答無用足早にその取調室から連れ出された。
―――驚愕と困惑で固まったあの表情。
反吐が出そうだ、と脳裏に残るそれを振り払い、男は固く目を閉じると椅子から立ち上がる。
「………ご協力、ありがとうございました」
後から入ってきた役職の随分上の警察官に頭を深く下げられ、男は力なく首を振った。
「………いえ。記憶が戻ってからも事件から遠く曖昧で、直に確認したいと無理を言い申し訳なかったです」
―――蘇るのは若かりし母の顔。
もうこの世にはいない、たったひとりの………。

なあ。忘れてしまったのか?
お前にとってはその程度の罪だったのか。

「オレの名前は、………」

―――もう届かないその声は、ただ虚しさに震えていた。


END.

7/21/2024, 7:32:49 AM