彼女は俺への扱いは雑なクセに、物の扱いは丁寧だ。
食事の所作をはじめ、靴の揃え方、体を開いて座る割りには立ち上がるときの体幹はブレず、ひとつひとつの動作がきれいで見入ってしまう。
互いに昼食をすませたリビング。
俺はいつものように食器を片づけを始める。
一方、彼女はソファに座って本をパラパラと読み進めていた。
四六判の本をいつものように一定のリズムで刻んでいる。
だが、ページをめくる紙の音がやけにのったりとしていて軽いことに気がついた。
なに読んでるんだ?
気になって彼女の読んでいる本を凝視する。
……見えねえー。
さすがに俺の視力ではキッチンから彼女がなにを読んでいるかまではわからなかった。
諦めて食器を洗うことに集中する。
その後、リビングに戻ってソファの後ろから彼女の読んでいる本を覗き込んだ。
「なに読んでるんですか……って、うわ」
彼女が読んでいたのは用語集だった。
パラパラと1枚ずつ丁寧に紙をめくった彼女の指先が止まる。
本についているスピンを挟んで背表紙を確認した。
「なにって、ただの用語集だよ?」
ソファの背もたれに首を預けて横着に視線を合わせた彼女の額が無防備になる。
ちょいちょいと指で流れた前髪を額に乗せた。
「こういうのって引くものではないんですか?」
「んー?」
用語集とか辞典を読書の対象にする人を初めて見た。
普通なら五十音順に並んでいる言葉を目的に合わせて探すもだろう。
「表記っていう視点で言葉を見たことがなかったから楽しいよ?」
「そうでしたか。それは失礼しました」
彼女のまんまるとした頭部をそっと撫でると、彼女はくすぐったさそうに肩を揺らす。
俺が手を離したあと、それを合図と察した彼女は再び本を開いて読み耽った。
パラパラと手際よく右側に送られていく薄い用紙が、柔らかな風を孕んでゆったりとした音を立てて寝そべっていく。
ページをめくる乾いた音が空調機や、回していた洗濯機の音と混ざりって意外にも心地よく響いた。
ソファの背もたれに肘をかけて彼女の手元をぼんやりと眺める。
洗濯が終わる頃合いや夕飯の献立、スーパーのタイムセールや明日の予定を大雑把に立てていった。
*
しばらくして彼女は静かに本を閉じた。
満足そうにして膝の上に本を置いたタイミングを見て、インスタントスープを入れたマグカップを差し出す。
「どうぞ」
「ありがと。でもさ、タイミングよすぎだろ……」
「それはそうでしょう。見てたんですから」
マグカップに息を吹きかける彼女の隣に座り、膝の上に置かれた本に目をやった。
「というか、それ。満足したら買い取らせてください」
「ん? あぁ。確かにれーじくん向けかもだね?」
「はい。定価の10倍出します」
そう言い放った途端、彼女の口からマグカップが離れ、眼光が鋭く光る。
「ちょっと。なんでそんな値段が跳ね上がるんだよ?」
ローテーブルの上にマグカップを置き、彼女が臨戦態勢に入った。
怒られる覚えは全くないが、プンスコと頬を膨らませているため、弁解してみる。
「あなたの手垢や指紋が全ページにわたってつけられたんですからプレ値がつくのは当然では?」
「言い方やめてもらえる?」
苦いものでも噛み潰したかのように顔をシワクチャにした彼女は、スピンを最初のページに挿し直して用語集を俺の膝に叩きつけた。
彼女の気が変わらないうちに、即座に用語集を両腕で抱え込む。
「あなたの手垢と指紋と皮脂と手汗が染み渡った用語集をどうもありがとうございます」
「はあっ!? なんで増やしたんだよ!?」
急に声を荒げ出した彼女だが、そこまで慌てさせることを言ったつもりはない。
そもそも。
「言い方を変えろと言ったのはそっちですよ?」
「そういうことじゃないからっ! あと、お金はいらないっ!」
「なんでですか?」
「大事に使ってほしいからっ!」
「なるほど。とはいえ、俺の気はすみませんね」
現金を受けつけてくれないなら現物支給しかない。
ペアリングと婚約指輪と結婚指輪であれば彼女はどれを選んでくれるのだろうか。
俺の思考を読みきったのか、彼女が再びマグカップに手を伸ばした。
「これ。前払いでもらったから大丈夫」
「えー……」
あざと。
あきれてはいるが、上目遣いで見上げてくれるのかわいい。
しかし、不服であることには変わりなかった。
「足りないんですが」
「私がいいって言ってんだから文句言うなよ。これ以上駄々こねるなら返して」
「それは困ります」
パラ……と1枚、適当に用語集のページを開く。
彼女の温もりと実用性を兼ねそろえられた1冊なんて、なかなか入手機会もないのだ。
みすみす手放す気はない。
とりあえず俺は用語集のお返しとして、彼女をベタベタに甘やかすことを決めたのだった。
『ページをめくる』
9/2/2025, 11:24:38 PM