Open App

「あと三十分か」
時刻は午前八時半。朝の仕込みを終えて、開店の準備を急ぐ。
当店は開業時から十年続く洋食屋である。一時期は不況の煽りを受け、廃業寸前まで追い込まれたが、その後なんとか立て直した。常連さんにも贔屓して頂いて何とかやっていけている。
うちは、洋食屋では珍しくモーニングもやっており、モーニングの時間帯は自分一人、ランチとディナーにはアルバイトの子に手伝ってもらっている。
前菜で出すスープの仕込みを終えて、ほんの少し一段落ついた。モーニングは比較的お客さんが少ないと言っても、一人で回すのはかなり大変である。
カラン
店の扉が開く。
「すいません。開店まだなんです。申し訳ないんですが、外でお待ちいただけませんか?」
キッチンの中から顔だけを出して、来客に当店は九時開店であることを伝える。
「久しぶり」
扉を開けたまま、一人の女性が立っている。
「美恵子…」
俺は彼女の名前を咄嗟に口にした。彼女のことはよく知っている。いや、正確には知っていた。
五年前、うちの店は不況の煽りを受けて廃業寸前に追い込まれた。それまで、店は俺と彼女の二人で切り盛りをしていた。先行きがわからないことに不安を覚えた俺は、彼女に離婚を申し出た。
彼女は俺の元妻である。
離婚を申し出た時の彼女の一言が、凄く印象に残っている。
ーお店、終わらせないでね
俺は彼女の人生を台無しにしたことを申し訳なく思っていた。店が忙しく、子供も作る機会を失って彼女の時間を奪ってしまった。
彼女の年齢を考えれば子供の一人や二人居てもおかしくはない。さらに、二十代という大事な時期を店の時間に使わせてしまった。
俺は彼女の姿を見ると固まってしまった。どう声を掛けてよいか、どう謝ったらよいか。最初の一言が思いつかなかった。
「そこ座っていい?それとも開店まで外で待ってた方が良いかな?」
固まる俺に彼女が声を掛ける。ぎこちなく、構わない、と一声掛けて席に通す。
「変わって無いね。あの時から」
彼女が店内を懐かしそうに見渡して、机の上のメニューを開く。
「あ、これまだあるんだ。朝からガッツリハンバーグ定食。それじゃこれ貰っていい?」
「あ、うん。わかった」
この、朝からガッツリハンバーグ定食は、二人でふざけて考えたメニューである。通常のハンバーグと量は変わらないのだが、朝からハンバーグを食べる人はあまり居ないと妻が言うので、それだったらいっそのことガッツリと付けちゃえということでこのメニューの名前が決まった。朝食限定ともあり、値段も少し安くしてある。
俺がキッチンで料理を作っていると、彼女が席を立ち、キッチンを覗く。俺の料理姿に感心しながら、別れた後の五年間のこのを話してくれた。俺もこの五年間何があったか話そうと思ったが、ほとんどお店のことしか話せず、常に彼女が話していた。
「あの時の約束、守ってくれたね」
彼女が囁くように言った。
「あぁ」
俺はそれ以上は何も言わなかった。
「出来たぞ」
俺の声を訊くと、彼女はそそくさと元の席についた。
「お待たせしました。朝からガッツリハンバーグ定食です。ご飯はサービスで大盛りにしておきました」
「えへへ。ありがとう」
食べることが大好きな彼女はご飯はいつも大盛りである。俺が少食なことをいいことによく俺のおかずまで手を出していた。
いただきますの掛け声と共に、彼女がハンバーグを小分けに切ってからその一切れを口に運ぶ。
「んー、おいしいー」
彼女の満面の笑みで頬が落ちそうな素振りをする。
彼女の笑顔が、俺が料理始めたきっかけであることを彼女は知らないだろう。

11/28/2023, 3:52:20 PM