一ノ瀬 奏

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#22 溢れる気持ち

今日も音楽室でピアノを弾く。
一人だけの部屋。
鍵盤の上を滑らかに滑る指。
風のように宙を舞う旋律。
その全てが俺を肯定してくれる。
お気に入りの曲を一曲弾き終わった後、視線を感じてふと顔を上げた。

女の子が立っていた。
俺の目をじっと見ながら。
思わず目を逸らす。
気恥ずかしい、というより、何かを見透かされそうで怖かったから。
もう一度ピアノに手を添える。
そして、撫でるように鍵盤を押そうとした。
その瞬間だった。
「君、上手いね。」
澄んだ声が空気を揺らす。
ありがとう、と口を開こうとした。
が、
「エゴの塊みたいで。」
女の子はそう言ってくすり、と口を隠して笑った。
は?エゴ?
グランドピアノが落ちてきたくらいの衝撃が脳を殴る。
ふざけんな。俺みたいに弾けない癖に。
そんな言葉が脳を駆け巡って、喉元まで出かかった。
でも、あえて俺は何も言わない。
今ここで何かを言ったら負けだ。
言い訳じみた言葉しか発せないのは事実だから。
正直言って、図星だから。
誤魔化すことも、怒ることもせず、沈黙が流れる。
俺は心を悟られないよう楽譜に目を細めた。
膝の上には、硬く握った拳が潜んでいる。
その拳はプルプルと震えていた。
らしくないな、俺。

その様子を見て女はぷっと吹き出す。
「そういうとこ。」
そういうとこ、ってどういうとこだよ。
俺が何も言わないことを分かっているように女は続ける。
「君、コンクールとか出たことないでしょ?」
関係ねぇだろ。そんなの。
もう聞いていられない。

そう思って、目を閉じてピアノと手を取った。
心に任せて旋律を描く。
あんたが認めなくても、こいつだけは俺を認めてくれる。
そう言い返すように。
今だけは、二人きりだ。
指が踊る。
鍵盤が返事をするように音を奏でる。
俺はピアノに微笑みかける。
愛してる。と言うように。

そのとき、音が外れた。

一気に現実に引き戻される。
目の前がゆらゆらと揺れた。
頬に生ぬるい感覚が伝う。
そのまま唇に液体が触れた。
しょっぱくて、苦い。
あぁ、俺泣いてるのか。
気づいた瞬間、涙が止まらなくなった。
女に悟られないよう、声を押し殺す。
肩に何か触れて、ぐしゃぐしゃの顔を起こした。
気づけば女はすぐ横にいて、俺の肩に手を置いていた。
その表情はどうしてか満足気で咄嗟に顔を背けた。
「君はいいピアニストになるよ。」
女は子供をあやすように俺の頭を撫でた。
もう、怒鳴る気力も、皮肉を言う気力もなかった。
俺はただしばらく泣いた。


お久しぶりです、一ノ瀬です。
新年がはじまり色々なことがバタバタしていました。
また再開できるといいな、と淡い希望を抱いております。

2/5/2026, 11:01:08 PM