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仕事を終えた私は、その足で行きつけのシーシャ屋に向かった。
今日は最高にツイてない。
朝のメイクノリは最悪だったし、今日の会議のために用意していた資料はPCトラブルにより全部消えた。
おかげで会議では上に詰められ、後輩の担当業務であった取引先へのメールも終わっておらず泣く泣く残業する羽目になったのだった。
大きく吐いた溜息が、冬の夜空に白く浮かんでは消えた。

私のマンションの近所まで帰ってくると、都会の喧騒は遠のき、住宅街が広がっている。
澄んだ空気にどこからともなく、入浴剤の香りが漂ってきた。
大通りから住宅街に入ってふたつめの路地を曲がると見える古民家の軒先に柔らかな暖色の灯りが灯っている。
「シーシャ処 檸檬」と書かれた、見慣れた看板が私を出迎えた。


古民家の扉を開けると、ふわりと軽やかなリンゴの香りが私を包んだ。
エントランスには、オーナーの趣味である観葉植物たちが、冬の寒さなんて知らないといったようにいきいきと茂っている。
程なくして真横のカウンターからオーナーが顔を出した。
私の顔を見るなり、にやりと笑い出迎えてくれる。

「うぃーすリンちゃん。そろそろ来ると思ってたよ。」

「お疲れ様です…もう21時まわってるよね…」

「死にそうな顔してんじゃん。で、今日何にする?」

「うーん…なんか疲れがふっ飛びそうなやつでお願いします。」

おっけ、おまかせね、とオーナーはまたもにやりと笑った。

上着を脱ぎながらフロアに入ると癖の強い常連たちがちらほらと既に来店している。
それぞれが私を見て、おつかれー、と手を振った。
私も挨拶を交わしながらソファーに腰掛ける。
先ほどのリンゴの香りは、ちょうど真横に座っている常連から香っていることに気づいた。
私は上着と鞄を置き、話しかける。

「コウノさん、今日もダブルアップル?」

コウノさんはいつも決まってダブルアップルという名のリンゴのフレーバーのシーシャを吸っている。
彼はシーシャの吸い口をこちらに渡し、頷いた。

シーシャは、数種類のフレーバーを混ぜて吸うと味の幅がより広がって美味しい。
しかし、このダブルアップルというフレーバーは単体で吸うことでより作り手の力量や、作り手によって味が変わるといったデリケートなフレーバーなのだ。
それゆえに、コウタさんのように根強いダブルアップルファンが多くいる。

「はは、そうだよ。まぁ、吸いなよ。なんか今日はいつにも増して疲れてそうだね。」

コウノさんから吸い口を受け取り、ガラスで出来た黄色の私のマウスピースを付けて、一服させてもらう。
リンゴの甘くまろやかな風味が口に広がる。

「死ぬほど疲れた。もう働きたくないですよ。」

コウノさんと私の会話に、他の常連たちも割って入ってくる。
一際声の大きい、坊主頭がトレードマークのスケさんが少し離れた席から私を呼んだ。

「まぁー、リン、ほら俺のも一服しなよ。愚痴なら聞くぜ。」

スケさんに礼を言い、一口もらう。
こちらは形容し難い複雑な味で、何が入ってるのかわからない。
フレーバーが複数ブレンドされているのだろう。

「美味しいけど、何味か分かんない。今日の、何?」

「忘れたー。」

ほぼ必ず、スケさんは自分の注文したフレーバーを忘れるので、彼は今日も通常運転である。
「今日のお前の注文は、コニャック・シガー・バニラ」とカウンター越しにオーナーのツッコミが聞こえた。
みんないつも通りだなと笑い、自分の席に戻ろうとした時にまたも別の常連から声をかけられる。

「リンさん、元気少ないね。僕のも吸っていいよぉ。」

「ありがとう、サクラちゃん。それじゃあ貰おうかな。」

サクラちゃんはゴテゴテに装飾のついたネイルの手でピースして笑った。
今日の彼女のシーシャは、桜餅と何かをブレンドしたものだろう。
若々しい彼女らしい、甘くて華やかな香りが広がる。
美味しさに口元を綻ばせていると、サクラちゃんがまんまるの大きな目で私の顔を覗き込んだ。

「よかった。リンさん、笑ったぁ。」

サクラちゃんの言葉で、続々と他の常連たちも私を励ましてくれる声が上がる。
やっぱりみんなに会いにきてよかった、と思った。

「ほら、リンちゃん座ってー。おまかせ、できたよ。」

ちょうどオーナーがシーシャを持ってカウンターから出てきたので、大人しく席に戻った。

吸い口を手渡され、一服する。
口の中に優しい酸味と甘みが広がった。
もわり、と息を丸く吐き出すと、芳醇な香りが白い煙となって天井に登っていく。

「今日は、梅でーす。」

オーナーが、またにやりと笑って踵を返した。

梅は、私の一番お気に入りのシーシャだ。
元から梅の味のフレーバーではなく、オーナーが複数のフレーバーをブレンドして、自分で編み出した味である。
オーナーのさり気ない気遣いに、心の中で感謝した。



店内には、緩く流れる落ち着いたジャズ調のBGMに、シーシャのぽこぽこという心地の良い水音が響いている。
時折常連たちの笑い声が混ざっては、シーシャの煙のようにふわりと消えていく。

フロアの中心のストーブの火がぱちぱちと揺らめき、
天井から下がるオレンジ色のあたたかい灯りはまるで星のように優しく私たちを照らす。


私は、このあたたかい空間がだいすきだ、と消えゆく煙を眺めながら思った。



1/11 あたたかいね




1/11/2025, 12:06:31 PM