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透明な涙

普通に涙というものは透明でキラキラキラしていて、悲しいときでも嬉しいときでも悔しい時でも、うんと涙をこぼせばキラキラキラ光る透明な心の汗が色々洗い流してくれて案外スッキリするものなのだと思っていたが。

今からちょうど30年前1995年(平成7年)1月17日(火曜日)午前5時46分に起きた地震で今まで見たことのないものを私たちは見せつけられたのである。

その頃の朝は早くもうその日も起き上がり、1日は始まっていた、弁当づくりに朝の準備その頃はまだ子供も一人だったから弁当もひとつをやたら丁寧に作っていた…その時ゴォォォという音と共にバンと何かが弾けるように上下し揺れが始まった、今まで感じたことのない揺れに一瞬何が起こっているのか分からず台所でガスを止めるのがやっとだった。その後2階で寝ていた夫が子供を抱えて飛んできた食器棚からクローゼットから物が飛び出し本棚は倒れ家も斜めになったかと思われたが、なんとか全員無事で、慌ててその頃は離れにあった義両親の家と店に安否の確認に向かった幸い無事、ようやく神戸の方で大きな地震があったことを知る、大阪は震度6とされ、神戸市、芦屋市、西宮市、宝塚市は震度7と知るところとなる、学生時代を神戸市で過ごした、今も友人知人が多く住む街、宝塚市には従姉妹が住んでいた。電話は繋がらなくなっていた。夫の身内も芦屋市西宮市に住んでいたため、夜が明けるのを待って夫は徒歩で神戸に向かった。

残された家族はとりあえず、店の片付けと従業員の安否確認に随分とかかった。朝になりようやく神戸の街の姿を目にした背筋が寒くなった。子供は不安からか手を離したがらず結局おんぶ紐でおんぶして数日を過ごした。まるで悪い夢でも見ているような数日が過ぎ、夫が悪い夢の続きの知らせを持って来た。

従姉妹が死んだ…。

姉弟のいない私にとって姉のような存在の人だった、明るくて綺麗なその人に私は随分憧れた。直ぐに私も行こうとしたが、「見ない方がいい」と夫に言われた。夫は他の身内も回って安否を確認し、私の従姉妹の葬儀も手伝ってとりあえず帰って来た。

従姉妹には母(叔母)も夫も子供もいたが、私は聞けずにいた。叔母は私たちの故郷から宝塚に行けず荼毘に付されてから娘との再会となってしまった…。

あれから30年、叔母も娘の元に逝き、代は彼女の娘叔母の孫の代になりました。

最近になって、ようやく、あの時一度だけ夫から聞いた、彼女の最後の顔の話を想い出せるようになりました。夫はひとこと「赤い涙を見た」とだけ私に教えてくれました。

それから、この日が来る度に、彼女の綺麗な横顔に伝う赤い涙が想い起こされます。

赤い涙もやっぱり透明で、あったはずだと思いたい。

彼女彼たちのもっと生きたかったという想いを胸に生きたいと思います。


赤くて透明な彼女の涙に 

              「黙祷」


令和7年1月17日 

               心幸  






1/16/2025, 4:28:14 PM