夜の闇に街は沈んでいる。
足音がやけに耳に障る。通る人が滅多にいないからであろうか。
草木も眠る丑三つ時。艮の路。
夜の静寂(しじま)に埋め尽くされた街を、ゆっくりと廻っていく。
無機質な静けさが、街という街に満ちている。
通りがかった側の家の窓を覗く。
電燈も灯りも消され、夜の闇と静寂に包まれた部屋がそこにある。
この家に住む大人も子供も、眠っているのだろう。部屋のみならず家全体がひっそりと静寂に包まれ、沈黙している。
記憶を頼りに、一軒ずつ部屋を確認する。
どの家も、どの家も、静寂に包まれた部屋ばかりの、静寂に包まれた家ばかりだ。
ホッとする。皆、しっかり眠れているのだ。
ふらり、ふらりと家を確認して、路を歩く。
南西に向かって、少しずつ…
突然、絹を裂くような泣き声が、静寂を劈く。
「おぎゃあ、んんぎゃあ、おぎゃあ」
訴えるような泣き声に、一拍遅れて、眠たそうにむにゃむにゃとした宥める声が混ざる。
いた。
夜泣きだ。
眠りこけている路を蹴り、急いでその声の元へ向かう。
窓から部屋を覗き込む。
静寂に包まれた家々、部屋々々に囲まれて、ただその家の寝室からは、叫ぶような訴えるような悲痛な泣き声と疲れの滲んだ声が、暗闇から漏れ出ている。
薄暗い部屋の中で、若い母親が赤子をあやしている。
赤子はますます泣きじゃくる。
抱えてあやす母親の目の下には、くっきりと目立つ隈。
「おお、よしよし、どちらも疲れているんだね。大丈夫、夜泣きは悪いことじゃあない。ちと迷惑なのは確かだが、赤子が元気なのは良いことさ。…どれ、ちょいと私に変わってごらんなさい」
窓の枠に足をかけ、そう語りかけながら、部屋に入り込む。
寝惚けている母親から赤子を受け取り、優しくゆすってやる。
「よしよし、大丈夫だよ。この私、鬼子母神様がいるんだから。この家に怖い妖や霊など入ってこないよ。落ち着いて静かにおやすみ。明日も元気に遊ばなきゃだめだろう」
言い聞かせてやりながら、少々力を使う。
子を健やかに育てる加護を、ゆっくり注いでやる。
母親は、もう舟を漕ぎ始めている。
限界だったのだろう。
赤子は次第に落ち着いていき、(良い子だ)やがて、くうくうと寝息を鳴らしながら眠り込んだ。
部屋は元の通り、夜の静寂に包まれた。
私はそうっと赤子をベビーベッドに横たえて、二人に、なるだけ丁寧に毛布をかける。
それから窓枠に足をかけて、静寂を破らないようにそっと路へ飛び降りる。
後には、静寂に包まれた部屋、静寂に包まれた家々、静寂に包まれた街並み…
また、ふらりふらりと歩き出す。
泣く赤子はいないだろうか。眠れぬ母はいないだろうか。
丑寅の刻の間。
鬼の時間だけは、私は社を出られる。
社を出てすることは、いろいろある。かつての仲間に挨拶をしたり、信心深い神職を労いにいったり…。
そして、新月の夜の丑寅の刻は、私は必ず夜泣きの赤子を見舞うことを決めている。
我が子が泣きじゃくるのは、切なく痛い。
赤子の泣き声は、どうしようもなく、胸を不安で掻き回すものだ。
況してや、こんな人間にとって不安な時間なら、尚更であろう。
少しでも手伝ってやれれば良い。私も可愛い赤子をあやせるし、一石二鳥だ。
そういうわけで、新月が昇る丑の刻、私はふらりと人里に入り、人の街をゆっくりと廻る。
静寂に包まれた部屋を見廻って、赤子をあやして、部屋をまた静寂で包む。
そして、夜が明ける前に艮の方角へ帰るのだ。
静寂に包まれた人里に、背を向けて。
夜の静寂(しじま)に街は包まれている。
夜はゆっくりと更けていく。
9/29/2024, 1:53:46 PM