一年前。
私は崖の上で、自らの命を絶とうとしていた。
その時の、雄大な景色は今でも目に焼き付いている。
今もその時のことを思い出しては、あの場所にもう一度行けたらと願う。
もう、この場所には来ることはないだろうと考えていたあのころ。
あの時の方が、まだ移動できるだけの体力があったなんてと、嘆いたところで仕方がない。先のことはわからないし、当時こうなることなど想像しなかった。あの時にはもう戻れないのだから。
現に今、こうしてベッドから身を起こして窓の外を見るだけでも、骨がきしみ、体に酸素を行き渡らせる呼吸すらしんどくて、最近は眠っていることが増えた。
起きているとけもベッドに横になったまま、病室の扉をじっと見つめ続けることの方がずっと多い。
ドアがノックされて、病室に看護師さんが来てくれた。
「こんにちは」
看護師さんは私のベッドに近づき、やせ細った私の手をそっと握ってくれた。
「今日も来てくださってありがとうございます。このようなお見苦しい姿を見せてすみません」
普通に言ったつもりだったけど、合間合間で呼吸を荒らげてしまった。看護師さんの顔が憐れみを浮かべる。
「そんな事はありませんよ」
私の顔は苦痛に歪んでないだろうか。口調は乱れたものの悲壮感は溢れていないだろうか。
「ありがとうございます。こうしてお話できて嬉しいです。それでは体温測りますね」看護師さんは体温計を取り出す。
それから私と看護師さんは10分ほど話をした。
前は平気だったのに、今はこんなに話すと疲れる。
それを見て取ったのか、看護師さんはまた来ますね、と言って病室から出た。
病室には、私がいつでも本が読めるようにと、家族や友人が沢山私の蔵書を持って来てくれている。いけられた花よりも、本のほうが多いくらいだった。
最初は自分で開いて読みふけっていたけれど、今となってはお見舞いにきた人に朗読してもらっている。本を持っているのも、読むのも体に負担がかかるから。
自分は、本当に長くない。
もうあと一ヶ月持てばいいかも。
そんな中、私の親友がお見舞いにやってきてくれた。いつものように朗読を頼む。
今日のリクエストは、今までたくさん読んできた医学書や学術書でもない、幼い頃に読んだ詩集の中で一番好きな詩にした。ぼろぼろになったその本を手にして、親友に読み上げてもらう。
読み上げてもらいながら、私は目を閉じた。
大好きな海を、もういないあの人と手を繋いで歩く夢を見た。あの人が笑う。私もつられて笑った。
「いつか あなたと うみを みたい」
最後の行を読むたびに、私の目から涙が落ちる。自らのことを忘れられる。
「ありがとう」
そして私は親友を見送って目を閉じる。
それから私は、お見舞いに来るたびにその詩の朗読を頼んだ。
その人のそれぞれの声が紡ぐ同じ詩は、まるで同じ色がない海のように、私の心に響いた。時には、穏やかに。時には、嵐のように。それは私の心の波を受けて、凪いだり荒れ狂った。
それから自分が思う以上に長くなってしまったけれど、今でもこうして詩を聴き続けている。
体が思うように動かず、食事の味がわからなくなっても、花の匂いがわからなくなっても、目が見えなくなっても、それでもまだ、私の耳には大好きな、あなたとの思い出がよみがえる音を聴く。
『いつか あなたと うみが みたい』
今日のお題:一年前
昨日のお題:好きな本
全てフィクションです。
詩は自前です
6/16/2023, 11:52:02 AM