ザブーン…ザブーン…
夜の海はここではない何処かへ誘うように
波音を響かせている。
一陣の風にも意味深長を滲ませて
ここには全てが眠っているとでも
主張するかのように。
遥か彼方も時空すらも
何もかもが望めばすぐ隣にあるのだと
錯覚してしまうかのように。
自分という存在すらも薄れ揺らぐ
不思議な潮騒だ。
月明かりを頼りに
浜辺のやわらかな砂を踏みしめて進む。
目的の人物は今日も一人、海を眺め佇んでいた。
「今年はお世話になりました」
「ここに来るとはいい度胸だな、本体」
傘を持った御人が淡々と返してくる。
わーい。目がこわーい。
「今年一番お世話になったので、ご挨拶に伺いました。ご機嫌麗しゅうございますか?」
「…わざと煽るとは。よほど傘で叩かれたいらしい」
手に持つ傘の位置が僅かだが上がってきている。
…マズイ。コイツは容赦無い奴だ。
「それはご勘弁願いますよ。本当にただの挨拶なんで。叩かれるために来たわけじゃないんで。正月前に怪我したくないんで」
言葉を並べ立てると傘の位置が下がっていった。
よしよし。叩かれるのは回避出来そうだ。
「…正月やらを楽しみたいのならここに来るな」
「どうしても伝えたいことがあったから来ただけですー。そうじゃなきゃ来ませんー」
「そのクソ腹立つ語尾伸ばしやめろ」
サーセン。
斜め上を見つつやる気のない謝罪を取り敢えずしておく。
直ぐに暴言が飛んでくるものかと思ったが来ない。
不思議に思って思考の海の番人の方を向くと、
当の御本人は眉間を揉んでいた。
わぁ、苛立ってる。
何でか誂いたくなるんだよね、コイツのこと。
よくわかんないけど。
もう少し誂いたいところだけれど、
今日はその為に来たわけじゃない。
「昔にさ、酷いことしちゃったでしょう」
思考の海の番人の顔がサッと変わった。
「あの時はそれが正解だと思っていたから、そうしたんだけど。最近になってさ、間違っていたんだって気が付いたんだよね。だから、あの時から今まで、ごめんね」
「…今更気付くのか…。随分遠回りをしたものだな」
お前も。
そう言った思考の海の番人は
何処か達観したような、或いは、この時を待っていたような、穏やかな顔でこちらを見た。
暫し見つめ合っていると、番人は口を開いた。
「未熟故に自分を取り囲む大人の声が世界の全てで、正解であると思いこんでいたあの時。長いものに巻かれ、自分のすべてを否定に費やした。その間に失ったものはあまりに多かった」
淡々とした声に静かに耳を傾ける。
懐かしくも愚かしい、
世間の常識の声に振り回されていたあの頃。
当時、世間の言うところの大人像とかけ離れた自分は焦っていた。
何とか見様見真似で世間に馴染もうとして、慣れないことを沢山した。
そうして表向き紛れても、所詮紛い物に過ぎないという思いが自分を蝕んでいた。
だから自分は、自分を否定することにした。
自分の思いより世間一般論を第一にして、
嫌だと思う気持ちすらも蓋をして、
自分を変えた。
でも、そうまでして自分を変えたはずなのに
いつまでも心は満たされない。
寧ろそうすればそうする程、心が渇く。
そんな自分の心を映すかのように
現実もどんどん潤いを失っていった。
「愚かだったと今なら思うよ。他人の声に従うのはある意味楽だった。決断を他人に委ねているのだから」
思考の海の番人はこの人物には珍しく薄っすらと微笑んだ。
「そうだな。他人の出した答えを真似るのはそう難しいことではない」
問題に向き合っているように錯覚させてくれるしな。
口調は皮肉げでありながらその目元は
過去を思い出しているのか寂しさが滲んでいる。
あぁ、コイツも自分とともに苦しんでいたのか。
「失う前の懐かしい日々はもう砂のひと粒も残っていないと思っていた。つい最近までは」
思考の海の番人は静かな眼差しでこちらを見た。
「構築中だから、今暫くはご迷惑をおかけするよ」
湿っぽくなってきてしまったので、軽い調子で返す。
「待つさ。待つのは慣れている」
その声はとても穏やかだった。
「君ならばそう言ってくれると思ったよ。じゃあ、言いたいことも言ったし、そろそろ御暇するよ。あっ、そうだ。思考の海の番人」
呼びかけると目があった。
「良いお年を」
年末のご挨拶は大切だ。
だと言うのに
「さっさと帰れ」
思考の海の番人は、犬猫を追っ払うかのようにシッシッと手を払った。
さっきまでの穏やかさは何処へやら。
このツンツンギレギレデレめ。
ブツブツ文句を言いつつ、
来た道を歩いていると、
遠くから
「良い年を」
という声が聞こえた。
12/31/2023, 12:25:42 PM