鏡の森 short stories

Open App

#027 「今いる場所がどこかを知らない」

 雨の音が聞こえた気がして顔を上げると、窓の外が白く煙るほどの降りようが目に入った。
「最近はこんな降り方ばかりね」
 四人掛けの席を一人で占領している女が言う。
 曖昧に応じ、追加のコーヒーをテーブルに置いた。カウンターの向こうの店主と目が合う。
「傘、ありますよ。必要でしたら」
「んー……まだ、いい」
 店主の提案に、女は不機嫌そうに応じた。

 カラカラカラン、と小気味のいい鐘の音を立てながら扉が開く。
 飛び込むように入ってきた男はずぶ濡れだった。
「バーカ。遅い」
 いつの間にか席を立っていた女はどこからか取り出したタオルを男に向かって投げつける。
 男がぶつぶつと小声で何かを応える間にタオルは重い真紅に染まった。
「……来なくてもよかったのに」
 つぶやく声を残し、女は待ち人とともに店を出ていく。

 いくらか小降りになった雨空の下、人待ち風情の人影が見えた。
 軒先に身を寄せているようだが、きっと濡れてしまうだろう。
 店内に招いてよいものか、店主を振り返る。店主はほんの一瞬、思案顔を見せてから緩く首を振った。
 店の前にはバス停があるが屋根がなく、雨の日には軒先に寄る人影をよく見かける。『ご自由にどうぞ』と書かれた傘を使って去っていく者もあれば、ぼんやりと雨が上がるのを待つ者もいる。

 ある日、軒先で雨宿りをしていた老婆は、どうやら子供連れだった。
 いつものように店主を振り返り、意向を尋ねる。店主は首をひねり、まぁ、いいでしょうと客を招き入れる。
 長靴を履いた子供は広い店内が気に入ったらしく、ドタバタと転がるように走り回った。老婆は席に座って水をすすっている。店主は苦笑いをするばかりで何も言わない。
 やがて雨の向こうにカラフルな色の傘が見えた。どうやら迎えが来たようだ。
 長靴の子供は老婆の席まで転がるように駆け、一緒に行こうと腕を引っ張る。老婆は困ったような顔で首を振る。
 どうやら間違ってついてきてしまったようだ。

 店主が珍しくカウンターを出て老婆と子供に話しかける。
 子供は顔をくしゃくしゃに歪めてひと泣きした後、店を出て鮮やかな傘とともに引き返していった。
 窓越しに子供を見送り、しばらくの時間をそこで過ごしてから老婆は帰るべき場所へと帰っていく。
「君もね、忘れないうちに帰りなさいよ」
 不意に店主に水を向けられ、しばらく考えた。
「帰るのは別にいいんすけど。ここ、バイト代もらえるんすか」
 考えた末に尋ねると、店主はケラケラ笑い出す。
 長く降り続いた雨が止んだようで、窓越しに爽やかな陽光が注いでいるのが見えた。
 どうやら傘を借りる必要はなさそうだ。

お題/雨に佇む
2023.08.29/こどー

8/28/2023, 4:16:10 PM