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61.『青く深く』『カーテン』『夏の匂い』


 気持ちのいい朝だった。
 カーテンから漏れる光が部屋を優しく照らし、よく眠れたのか体が軽い。
 朝特有のけだるさもなく、頭もバッチリ冴えて眠気がない。
 一日を始めるには最高のコンディションだった。

 カーテンを開ければ、窓一面には青く深く染まる海の色。
 サンゴ礁は虹色に輝き、色とりどりの魚たちが躍る。
 人生で初めて見る幻想的な風景。
 文字通り究極の美と言えるだろう。

 けれど時間は有限、眺めている時間は無い。
 すぐに家を出ないと遅刻してしまう。
 特に今日は大事な会議がある。
 すぐに朝の準備をしなければ、って――

「なんじゃこりゃー!?」
 思わず叫ぶ。
 窓の外が海ってどういう事?
 意味が分からない。

 自分が住んでいるアパートは、ごくごく普通の安アパートである。
 普通に陸の上に建っており、普通に街の中にあった。
 間違っても海の中に建てられたものではない。

 何度目をこすっても窓の外は海の色。
 昨日まで代り映えしない街の風景が見えたのに、どうしてこうなった?
 夏の匂いに誘われて鳴いていたセミも、どこにもいやしない。

 もしかして寝ている間にアパートが水没した?
 でも、近くには海は無いし……
 どれだけ考えても理解できず、まるで悪い夢でも見ているようだった。

「川島様、起きられましたか?」
 あまりの事態に呆然としていると、自分を呼ぶ声がした
 振り返ると、そこにはこの世の物とは思えない程美しい女性がいた。
 女性は優しく自分に微笑みかける。

 女性の後ろには、鯛が控えるようにいた。
 なにも無い空間に『ここは水中です』と言わんばかりに、当たり前の様に浮かんでいる。
 荒唐無稽な目の前の風景に、夢かと思い頬をつねる。
 しかし頬から伝わる痛みが、ここは現実だと知らせて来る

「お疲れのようでぐっすりと眠られていましたよ。
 さあ、朝ご飯の準備は出来ておりますから――」
「待って、ちょっと待って」

 咄嗟に女性の言葉を遮る。
 失礼なことだと承知しているが、何が何だか分からないまま事態を進行させないで欲しい。
 頭が爆発しそうなくらい混乱しているのに、何も教えないのは酷くないか?
 俺は努めて冷静さを装いながら、女性に質問する。

「ここはどこ?」
「竜宮城でございます」
「竜宮城って、あの!?」

 そこですべてが繋がった。
 竜宮城と言えば、昔話の『浦島太郎』に出てくる場所。
 海の底、美しい女性、不思議な魚……
 この世とは思えないほど美しい城で、そこで時を忘れてしまうほど楽しい時間が過ごせると言う。

 辺りを見渡せば、確かにここは自分の部屋ではない。
 部屋は趣のある和室で、お高そうな美術品が多数置いてある。
 一見して自分の部屋ではないと分かるのだが、混乱のあまり気づかなかったようだ。

 となると、目の前の女性は乙姫だろうか?
 ただならぬ雰囲気を纏っているので、多分そうなのだろう。
 にわかには信じがたいが、目の前に起きている信じがたい事実の数々。
 本当に竜宮城なのだろう。

 アレはフィクションじゃなかったのか……
 そんな思いを抱きながら、乙姫にさらなる質問をする

「それで、なんでボクはここにいるの?」
「川島様は、先日亀をお助けになられましたよね?」
「亀を助けた?
 俺が?」
「ええ、先週の日曜日に、川辺で」

 乙姫に言われて、先週の日曜日の事を思い出す。
 確かその時は、アイスを買いに近所のコンビニに行こうとしていた。
 川に沿って続く歩道を歩いていると、川辺でひっくり返った亀を見つけたのである。
 足をばたつかせてもがく亀。
 かわいそうに思った俺は、亀をひっくり返してその場を去ったのだった。

「ああ、思い出した。
 あの時の」
「探すのには苦労しましたよ。
 なにせ、名乗らずに行ってしまわれるのですから」
「普通は亀には名乗らないよ」
「そうでもありませんよ。
 亀を助けて名乗る方が大勢いらっしゃるのです」
「へえ、そうなんだ……」

 昔話を真に受けて、名乗る人がそれなりにいるらしい。
 どうやら意外とロマンチストが多いようだ。
 けれど自分がこうして竜宮城に来ている事を考えれば、あながち間違っても言えないのだが。
 そんな事を思っていると、腹が大きな声で鳴いた。

「もっとお話をしたいところですが、空腹であるご様子。
 お食事を食べながらお話ししましょう」
「そうしよう。
 とりあえずなにか腹に入れて、話はそれからだな」
「ではご案内します」

 最低限の身なりを整えて、乙姫に付いて行く。
 いい匂いがし始める。
 これは期待できそうだ。

 腹ごしらえをして、次にすることは……
 とまで考えてあることに気づいた。

「今思い出したんだけど、俺今日は大事な会議があるんだ。
 朝食を食べたら地上に送ってもらえないかな?」
「ああ、それについてはご安心を。
 こちらで手配しております」
「手配?」
「そろそろ連絡が来る頃だと思いますよ」

 と乙姫が言うと同時に、通知を知らせてスマホが震える。
 通知はLINE、上司からのメッセージだった。

『川島よ、話は聞いた。
 そこにいる女性の言う事には絶対に逆らってはいけない。
 こちらの事は何とかするから、自分の身の安全だけ考えてろ』

 妙に不穏なメッセージに、俺の心が不安でいっぱいになる。
 俺殺されるの?
 そう言われてみれば、『浦島太郎』はバットエンド。
 気を抜くととんでもない事が起こるのかもしれない。

「ところで亀を助けた人は大勢いるみたいだけど、どうなったの?」
「ええ、下心があるとはいえ、恩は恩。
 歓迎し、笑顔でお帰り願いました」
「そうなんだ」
「イケメンは返しませんけどね」
「へ?」
「冗談ですよ」

 ふふふ、とイタズラっぽい笑みを浮かべる乙姫。
 だが俺は見逃さなかった。
 乙姫の目の奥が、ほの暗い炎を宿していた事を……

「早く行きましょう、川島様。
 用意したご飯が冷めてしまいます」
「ああ、分かった。
 冷めたらおいしくないもんな」
 適当に話を合わせつつ、乙姫に付いて行く。
 おいしそうと思えた朝ご飯の匂いも、今では最後の晩餐としか思えない。

 叫びそうになるくらい恐怖していると、再びスマホが震える。
 震える手で操作すると、また上司からメッセージが来ていた。

『おまえは顔がいいから、逆らわない限り乱暴されることは無いだろう。
 その内飽きるだろうから、それまでの辛抱だ。
 生きて帰って来いよ』

 一説によると、浦島太郎は300年間竜宮城にいたらしい。
 さすがにそこまで引き留められるとは思わないが、覚悟はしたほうがいいかもしれない。

「川島様、どうかされましたか?」
「……なんでもない。
 すぐ行く」

 帰ってみせる、たとえ300年かかろうとも。
 乙姫のなめつける視線に寒気を感じながら、俺は硬く決意をするのだった。

7/6/2025, 9:44:38 PM