→『彼らの時間』5 ~来し方行く末①~
会議が終わった後、自称・広報部長(広報一人だけ)に話しかけられた。
「前から思ってたんですけど、綿貫さんのそのメガネ、格好いいっすね」
登録上・代表取締役の僕は眼鏡を胸ポケットに入れた。軽い乱視を補うためのもので、近くを長時間見る時にしか使っていない。「どこにでもある黒メガネだよ」
「あっ、そうだ。今度のウェブマガジンのインタビュー、そのメガネかけてくださいよ。読者ウケ良さそう」
広報部長さんが去って、僕は会議室に一人残された。今まで気にしていなかった眼鏡が、胸ポケットの中で急に重量を増した気がした。
ダイニングテーブルでヒロトくんと向かい合っての夕食。
「ヒロトくん? 今度の週末って空いてる時間ある?」
ヒロトくんが作った明太子パスタ、美味しすぎる!!! カフェでバイトを始めてから、ヒロトくんの料理の腕はメキメキと上達していた。大学生活とアルバイの両立ができるなんて、さすがはヒロトくんだ。僕なんて起業でバタバタして高校生活おざなりだったのに。当時のこと、ほとんど覚えてないや。
「土曜はバイトだから日曜なら。何? 買い物?」
ヒロトくんは蕎麦のようにパスタを箸で啜った。そんなに口いっぱい頬張って! く、口がハムハムしてる。ハムスターも裸足で逃げ出す愛らしさ。あぁ、僕、眼福でお腹いっぱい。
「メガネ、買いたくて」
「カッコイイの持ってんじゃん。壊れたなら修理に出せば?」
「あー、気分替えたいなぁって」
「見事に棒読み。その場しのぎヘタすぎ」
ヒロトくんの箸が止まった。「ワタヌキコウセイ?」と優しい呼びかけが僕の背中を押す。僕はポツポツと白状した。
「……あのメガネ、父さんがフレームだけ新しくしてくれたの、忘れてたんだ……」
「思い出したから買い替え?」
ヒロトくんの落ち着いた声は、僕の心に雫のように落ちて波紋を広げる。波紋がさざ波を立てて僕の言葉となってゆく。さわさわさわ……。
「か、彼はもう再婚して新しい家庭を持ってる。それなのに僕が彼との思い出の品を持ってたら、さ……」
あぁ、感情のさざ波が大波となって押し返す。「こ、今度のウェブマガジンのインタビューにあのメガネをかけなきゃいけなくって! そんなの、もし父さんが見たら!!」思い出す、彼の震える背中、涙声。「何がカミングアウトだ、ふざけるな」その失望、喪失感。ごめんなさい、ごめんなさい、父さん……!
「嬉しいと思う」
「へ?」
ヒロトくんの声がビッグウェーブのようにすべてを飲み込んだ。えっと??
「二人の仲が拗れてるってのは前に聞いたし、長いこと会ったりしてないんだろ? じゃあ、お父さんがウェブマガジンで、思い出の眼鏡のワタヌキを見たらさ、なんだかんだで感涙もんじゃね?」
常夏の太陽ですか? この人……。
「ヒロトくんは優しいからそうやって何でもいい方面に物事を考えてくれるけど、そうじゃないこともあるじゃん」
「過去って感情脚色の記憶だし、それを未来に引きずっていくことはないと思うってのは無責任すぎ?」
あれ? ヒロトくん、また口をもぐもぐしてる? ハッ!? 僕のパスタ、ヒロトくんに食べ尽くされてるよ!? まったく、もう……! 油断も隙も無いんだから! ホント、ヒロトくんは、もう……ありがとう。
その夜、夢で高校の卒業式を思い出した。家に帰ると、父がリビングで僕に背中を向けて座っていた。机に眼鏡ケース。
「昴晴、メガネ、新しくしといたぞ」
カミングアウト以降、彼との会話は皆無だと思っていた。そうか、違ったんだ。これ、忘れたくないな。朝一番で、ヒロトくんに話したいな。
テーマ; 喪失感
9/11/2024, 8:19:24 AM