古びた檜の床がキリキリと鳴くような音がしたら、あの人が帰ってきたのだとわかる。
あの人の左足は、膝から下がなかった。生まれつきのものかはわからないけれど、初めて見たときから鋼色の義足をつけていた。
私が貧しさに喘ぐ学生だった頃に住んでいたアパートの、隣にいたのがあの人だった。軽く挨拶をしたくらいで、言葉を交わした記憶はほとんどない。若々しい容姿なのにグレーの頭髪で、瞳も霧がかったような淡い灰色をしていた。
学校からの帰りが遅くなった夜に、ときどきアパートの回廊ですれ違うことがあった。暗く冷たいその場所で「こんばんは」と声をかけると、そっと会釈をする。それだけのやり取りだった。
通りすぎるときは、いつもやさしい石鹸の香りがした。聞きなれない音がぎこちなく、しかし整然と暗い回廊に響き渡る。私はときどき、その孤独な後ろ姿をじっと見つめてみた。
その後私は引っ越したから、あの人が今もあのアパートに住んでいるのかは知らない。
それでも時々、もの寂しさに眠れない夜はあの人の足音が聞こえる気がする。
『足音』
8/19/2025, 9:59:59 AM