国語の教科書。俺はそれをもう要らなくなった赤本の山の上にそっと置いた。
俺は四月から大学生となった。新しい生活の幕開けである。俺は大学の新たな教科書を家の棚に並べようとしたのだが、そこには高校までの教科書やら参考書がパンパンに詰め込まれていた。
「まずはこれを片付けなきゃなだな……」
まだ見返したいノートや教科書、結局使わなかったので売れそうな参考書、書き込みが多くてゴミに出す赤本……。沢山の本の山を分類して積み上げ、それらの未来を決めていった。そして冒頭へ戻る─────
俺は捨てる赤本の上に置かれた、国語の教科書を苦々しい思いで見つめた。「現代の国語」と書かれた表紙には紙飛行機の写真がプリントされている。そう、これはゴミ。小説やら評論文が沢山乗っているだけで、見返したい大切な文法も難しい公式も載っていない、こんなものを残す必要は……。それなのに、俺はその教科書をもう一度手に取った。そして、重くて厚いそれをペラペラめくった。段々とページをめくるペースを落としていく。パラ、パラ……パラ。そしてとあるページでその手を止めた。
「……舞姫」
それは俺らが高三の秋に扱った小説であった。
しかしながら、その話が特別お気に入りだった……というわけではない。いや、むしろ当時俺は国語の授業などろくすっぽ聞いていなかった。というのも、一般受験の俺はあの秋はとにかく必死だった。そして理系の俺にとって、国語の小説の授業なぞは、他の英語や数学に比べて優先度は圧倒的に底辺だったのだ。だから俺は机上には教科書だけ出して、その横に──申し訳程度に教科書の端で隠しながら──塾の課題をガリガリ進めていたのだった。
その国語のある授業のことである。いつも通り内職に没頭していると、隣の席の彼女が肘で小突いて囁いた。
「ねえ」
俺が少し顔を上げて、邪魔をしないでくれという表情をすると、彼女は小声で言った。
「当てられてるよ」
急いで黒板の方に向き直すと、教師がこちらをじっと見つめていた。
「お前、授業聞いているか?この時、豊太郎はどうするべきだったと思うか?」
「えっ……と……」
俺は塾の課題に夢中で、教科書もどこの部分をやっているかすら分かっていなかった。俺の慌てている様子を見た彼女は、自身のノートをこっそり差し出し、ある一文を指した。俺はとりあえずそのノートの文章を読み上げた。
「……豊太郎は大臣に断りを告げ、出世の道ではなく、エリスと共に生きるべきだった……と思います」
「うん、そうだな。これからはちゃんと授業は聞けよ」
「はい」
危なかった。俺は彼女の方にコソッと、ありがとうと伝えた。授業後、期末試験に出るから一度くらい読んどきなさいよ、と言われてしぶしぶ目を通したっけ。試験前には、ノートを見せて貰ったりもした。彼女は、まったくもう、などと言っていたが何だかんだ優しかった。
……たったそれだけの思い出である。彼女と俺は仲が良かった。卒業式の後の打ち上げでも隣に座るくらいには。俺らは一緒の大学を目指して勉強していた。そして俺は見事その大学に入学した。そして彼女は……彼女は別の大学に行った。俺らが一緒に目指した大学より、ワンランク上のチャレンジ校に合格したそうだ。申し訳なさそうにする彼女に、俺は一言、良かったね、とだけ伝えた。
でも俺にはなんで彼女があの時、豊太郎がエリスを選べば良かった、なんて書いたのか分からなかった。彼女は今、どんな人と出会い、笑いあっているのだろうか。
俺は何を思ったか、近くの勉強机の上に置いてあった筆箱からシャーペンを取り出した。そして教科書の舞姫の最後の文の横に、彼女の名前を書いてみた。そうしてそれを、本棚にまた戻した。もうあの名前の書かれたページを開くことはない。けれど、捨てることもできないのだ。
【 どんなに離れていても⠀】
4/27/2025, 7:59:00 AM