結城斗永

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このお話は1/24から投稿している連続小説『過ぎ去った未来』の最終話です。

※この物語はフィクションです。登場する人物および団体は、実在のものとは一切関係ありません。
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『過ぎ去った未来』最終話

 一方、遠い未来に飛ばされた八十歳の坂部真一は、公園の隅でダンボールの壁に身を寄せながら、苦労してつかんだ栄光からの急激な転落を嘆いていた。それまでの安堵が一気に闇に葬り去られた絶望は計り知れなかった。

 薄汚れた段ボールの隙間から入り込む冬の風は、老いた坂部の皮膚を容赦なく切り刻む。喉の奥からはヒューヒューと枯れた音が漏れ、指先はとっくに感覚を失っていた。

 坂部は今こうして寒さに震えている己の原因が、三十年前に我が身と入れ替わった『二十歳の坂部』の成れの果てであることは分かっていた。
 二十歳の何も知らない若者が、いきなり責任の重圧の渦に放り込まれれば、どうなるのかは想像に難くない。

 ――今までこの肉体に入っていた『坂部の意識』は今ごろどうしているのだろうか。
 坂部は虚空の向こうに、もう一つの人生を夢想した。きっと彼は今ごろ、私の肉体に入り込んでビルの上から世界を見渡しているのだろう。しかし、それは世界規模の重圧。想像以上に過酷な運命だと、容易く理解できた。
 坂部は、もう一人の坂部が背負ってしまった代償を他人事だとは思えなかった。どんなに未来を変えようとも、過去の私は肉体を捨てたわけではなかった。いつまで経っても坂部は坂部だった。
 
 ――このまま項垂れていても仕方がない。
 坂部は思うように動かない八十歳の老体に力を入れ、ゆっくりと立ち上がる。 その力の源は、これまでの過去への懺悔なのか、いまだ消えない未来への希望なのか。

 三十年という歳月は坂部の思考が追いつかないほどの技術革新と文化の変容をもたらしていた。それでも、坂部はその身一つでできること模索した。幸い、彼には一つの企業を世界規模まで築き上げた経験と胆力があった。
 周辺のホームレス仲間と情報交換をしながら、より効果的な資源回収のルートを構築し、コツコツと地道に小銭を稼いでいった。仲間たちともに独自のネットワークを構築し、人工知能では手の廻らない『隙間』から、新たな需要と供給を生み出していく。そして、坂部はこの時代で、再び栄光をつかみ始めていた。

 坂部にはひとつの心残りがあった。かつて、自身が過去に戻った際、残してきた人々のことだ。責任を押し付けるかたちで逃げ出した自分の姿がひどく情けなく思えた。 先の短い人生。坂部がいなくなったあと、ここに残される人々が路頭に迷わないよう、システムを可能な限り簡素化し、仲間たちにも基本的なフローとプロセスを共有した。

 頭に浮かぶのはもう一人の坂部の存在だった。これっぽっちのことで、過去においてきた未来への責任を清算できたとは思わない。しかし、それでもやらなければ、と思った。

 坂部は公園のベンチに腰掛け、ぼんやりと世界を眺める。
 視界の端で、幸せそうな親子連れが足早に通り過ぎていった。父親と母親が子どもの手を引きながら歩いている。そんな何気ない光景でさえも、今の坂部には眩しすぎた。
 ――あなた……。
 ――お父さん……。
 思いがけず坂部の脳裏に二つの声が響いた。恵子と詩織の声であった。坂部の胸は激しく波打った。今までその存在を忘れていたことに、ひどく動揺して涙が溢れ出た。

 坂部には帰る家があった。愛する妻と娘がいた。それこそが、仕事に人生を賭けてきた一番の理由だったはずなのに、そのすべてを忘れていた。
『肉体は時に本来そこにあった意識の残留でもってあなたを飲み込もうとします。無意識ほど怖いものはございません』
 店主の言葉が頭の中を金槌で打つように響いてくる。坂部の意識は、いつの間にか、あの時代の坂部の肉体に飲み込まれていたのだ。
 ――『若さ』なんていらない。成功や富なんかよりももっと大切なものに囲まれていた、あの頃に戻りたい。
 坂部は、震える手を合わせ、心の底から叫ぶように願った。

 その時、坂部の目の前にあの腰の曲がった『たいむましぃん屋』の店主が姿を現した。
「本当にいいのですか?」
 店主は相変わらず不敵な笑みを浮かべながら、穏やかな口調で続ける。
「これほどまでの絶望を経験しながら、この時代でもあなたは栄光を築き上げた。過去の蓄積は確実にあなたを強くしている。このままここに残って余生を過ごすのも悪くはないと思いますが……」
 坂部は店主の言葉をしっかりと受け止めながらも、きっぱりと首を横に振る。
「いや、いいんだ。この世界に思い残すことはない。それよりも……」坂部は空を見上げる。「恵子と詩織のいる世界こそが、私のすべてだ」

 坂部の脳裏に我が家のリビングの光景が蘇る。恵子が作る料理の香りがリビングに漂い、詩織はソファで音楽を聴きながらファッション誌を読み耽る。そんな何気ない光景が、記憶の遥か底の方でくすぶっていた。

「では、お望みどおりに……」
 店主は懐から懐中時計を取り出す。
 突如吹き付けた木枯らしが落ち葉を巻き上げ、思わず坂部は目を閉じた。瞼の裏で店主が手にしていた懐中時計が左右に揺れる。脳みそが共振するような感覚。意識が遠のいていく。

   ❖

 意識を取り戻した坂部が目にしたのは、繁華街を彩るネオン看板だった。夜の闇の中で店先のウインドウが坂部の容姿を映し出す。老けてもいないが、若くもない。五十歳の坂部の姿がそこにはあった。

 手の中でスマートフォンのバイブが震えた。画面に『【重要】明日の会議について』の通知。ポケットの名刺に『営業部長』の文字を見て、社長や部下の顔が次々と浮かんだ。
「戻ってきた……」
 坂部の視界が潤む。喉の奥が熱くなり、嗚咽が湧いて出る。
「良かった……。本当に良かった……」
 坂部はワイシャツの袖で涙を拭った。

 坂部は家路を急いだ。駅から自宅までの道は、見るものすべてが懐かしい景色のはずなのに、まるで気にならないほどに通り過ぎていく。坂部はゴールテープを目指すマラソンランナーのように、力の限りを尽くして走った。

 我が家を目にして、初めて懐かしいと感じた。鍵を開け、玄関に駆け込む。
 絶え絶えの息の中、「ただいま」と出した声は、どこまで声としての形を留めていたかもわからないほどに震えていた。
「おかえりなさい。お疲れ様」
 恵子がエプロン姿でリビングから顔を出した。その姿を見た瞬間、坂部は涙を流しながら思わず彼女を抱きしめた。
「会いたかった……」
「びっくりした、急にどうしたのよ?」
 恵子は驚きながらも、笑顔で坂部を包み込んだ。

「どうしたの?」
 娘の詩織が顔を出す。泣いている坂部を見て、「なんか今日のお父さん、気持ち悪いんだけど……」と毒づいた。そんな反抗期の娘の成長すら、今の坂部には愛おしかった。

 夕食のテーブルにつき、温かい味噌汁を啜る。家族の何気ない会話が弾む。愛する人たちの笑顔に満ちた空間。これ以上の幸せが、この世にあるだろうか。

 翌朝、坂部は以前と同じように会社へ向かった。出社するなり、社長から呼び出しを食らう。
「坂部君、例のプロジェクトだがね――」
 すでに無理難題の匂いがした。きっとまた部下たちの理解を得なければ進められない案件になる。しかし、坂部は深々と頭を下げ、晴れやかな顔で答えた。
「承知しました。全力で当たります」
 この泥臭い『責任』が、自分という人間を社会に繋ぎ止めている鎖であり、同時に自分を形作る誇りなのだと、坂部は痛感していた。

 それから、長い年月が流れた。
 八十歳になった坂部は、公園のベンチに座って冬の柔らかな日差しを浴びていた。

 隣には、同じように歳を重ね、白髪の混じった髪を上品にまとめた恵子が座っている。
「お父さん、そろそろ行きましょうか。孫たちが待ってるわ」
「ああ、そうだな」
 坂部は恵子に支えられながら、杖を片手に立ち上がる。少し不自由になった足取りで向かう先には、四十六歳になった詩織が孫を連れて待っている。
「ほら、じぃじとばぁばに挨拶して」
 溌剌とした声を上げて駆け寄ってくる孫を膝で受け止め抱きしめる。腕の中に感じる確かな命の重み。

 ――結局、何も変える必要はなかったんだな。
 坂部はふと『たいむましぃん屋』のことを思い出して、自嘲の笑みをこぼす。

 坂部は空を見上げた。青い空に、雲がゆっくりと流れている。
 坂部は、もう一人の自分が二十歳のあの日に戻れていることを祈っていた。そしてその三十年が自分にとってどれほど大事な過去だったかを改めて噛みしめる。『過去』とは執着するものではなく、今を生きるための糧となるものだ。そして、やがて来る『未来』というのは、一日一日の『今』を積み重ねた先で、自分だけが見ることのできる絶景なのだ。

 坂部は隣に立つ恵子の手をそっと握りしめた。 人生はまだ動いている。残り少ない『今』という瞬間を燃料にして、目の前にいる娘や孫たちのための道を作っていく。それが私がいま目指すべき『未来』という道だ。

                     『過ぎ去った未来』―完―

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最後まで読んでいただきありがとうございました🙇
 

1/30/2026, 10:25:24 AM