令和7年4月19日
お題 「影絵」
「まだ見ぬ、波濤」 作 碧海 曽良
1989年平成元年8月14日 午後7時 🕖️
海内洋は「クロスロード」の扉を開いた。
ざわつく店内に夏の夕日がまだ差し込んでいた。セピア色の絨毯木目調のアンテークな広いテーブル立食形式なので椅子は壁際に並べられ奥にピアノとカウンターバーがある田舎街には珍しい趣味の良い店。この日のBGMは映画「追憶」のサントラ丁度バーバラ・ストライサンドが歌う、「The way we were」あの頃の私たちが流れていた、控え目に穏やかに。
赤茶色の大きなカーテンの向こうに鶫之子がいるのが海内洋には直ぐに分かった、丁度あの日講堂で舞う桜が朝の光にキラキラと揺れる中で鶫之子を見つけた日。山鳩のようでいて、それを捕食する猛禽類のような、そんな相反するような輝きで海内洋の前に現れた日と同じ、そのままの鶫之子だった。一瞬声をかけるかどうか迷った時、友達が少なく地元でもない海内洋の唯一無二の地元旧友が声をかけた。「よう、久しぶり」「ああ…」当たり障りのない言葉を交わしながらそいつの名前を考えた、海内洋は元来そういう奴で、ドライでは決してないが、拘りがなくそして一匹狼だ。今自分が話している同級生だった、おそらく三年間同じクラスだったクラブも一緒だったはずの、この男、、確か造船屋の倅で強力とかいったはずだが下の名前が思い出せない。
適当に合わせて返事をしていた。
カーテンの隙間から差し込む光に鶫之子の背骨が真っすぐとした後ろ姿が影絵のように動いているのを、自然に目で追いながら、海内洋は学生時代を回想していた。卒業式のなごり雪、海に消える真っ白な雪霰、卒業しても続いて行くだろうと信じていた想い。それほど海内洋にとって鶫之子は面白い女の子だった。やがて東京に出て女のあざとさを知る前の陽だまりの中に之子はいた。幼い頃から転校を重ねて人に振り回されないつもりでいたが、東京という街は一瞬にして19の青年の成り行きを支配した。そうして卒業証書を抱いて並んで朝の雪霰が雨に変わった中を傘の波にのまれながらも、隣を離れないように小走りで歩いていた少女のことを、アルバムに閉じ込めてしまうのであった。
海内洋は、成り行きでコンパで知り合った女子大生と付き合う、名前だけはお嬢様な大学、軽薄を絵に描いたような女子大生に、大学に親の金で通っていながら自分の母親を悪く言う病んだ自称繊細の反抗期娘。こんなにも、今考えれば何の魅力も無い女が化粧とワンレン彼岸花頭とボディコン甘い香水の香りに噎せ返り、スカしたディスコの灯りで気持ちが飛ぶのであった、そんな都会の麻薬に渡り鳥の海内洋も例外なく、おのぼりさんで染まって行った。
そして、出会ってから四年と半年19の夏の終わり頃には疎遠になっていたことを回想する。
やけに拘り深い海内洋は、音信不通で置いてけぼりにした19才の之子への懺悔と後悔の気持ちとで、声をかけることが出来ずにいた。
之子は自分から、海内洋の方へ歩み寄り声をかけた。
日はとっぷりと沈んでいた。
思い出は心の隅を照らす
あの頃の私たち
霞がかった水彩画のような思い出
散りばめられた写真には
私たちが置いてきた微笑み
すべて自然なことだった?
それとも時がすべてを書き換えた?
やり直すチャンスがあるのなら
やり直す?やり直せる?
思い出は美しいかも知れないけれど
覚えているには辛すぎた
そんな若さだった
私たちはただ忘れることを選び
笑い声だけを思い出す
あの頃の私たちを
思い出す時はいつも
「追憶」より
The way we were . あの頃の私たち。
つづく
「影絵」
秋でもないのに長い月影で影絵遊びをした。
狐と兎コンコンピョンピョン🤘と🐰は似てきてどっちがどっちか分からなくなって、混ざり合って溶け合って影がひとつになって影絵もひとつになりましたとさ。
めでたしめでたし
碧海 曽良
4/19/2025, 12:19:27 PM